2015年12月16日水曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ  悪魔視は洗脳教団の特徴③



(投稿・前回から続く)

3.悪魔視から逃れるには(続き)

②霊的な方は、客観的な霊的事実のみを認識するべき

悪魔悪霊が憑依しているからといって、その人は悪魔悪霊ではないという見方をまずしなければ、悪魔視は消えません。K会初期の頃は、私は客観的な事実として認識している状態で、悪魔視はしていませんでした。いつの間にか、悪魔視になっていきました。強く憑依されているような方を見れば、悪魔的に見えるのですが、悪魔ではないのです。
以前、「悪魔の手口を知る」という投稿の注釈で、種村氏が悪魔と言われる存在も元は神の一部(神により創られた存在、悪魔も元は神の子)である事を思えば、恐怖する存在ではないというような意味の注釈があったかと思います。その通りで本来は、悪魔さえ、悪魔と見なさない見方(正見)が正しいと思います。ただ、その完全な認識には、高い悟りが必要だと思います。

私の経験から見れば、通常は、実際に悪魔に遭遇すれば、最初は十中八九、恐怖心が先立つと思います。霊的な方で邪悪な悪魔に遭遇された方には、悪魔は様々な現象を起こして、心への妨害をしてきます。ですから、客観視するのは難しいのですが、対人に対しては可能だと思います。
その為には、K会流の客観視を捨てて、根底に愛の目を持った客観視が必要だと思います。愛の目を持った客観視で、悪魔も元は神の子であり、現在も神の子であるという目が、悪魔に対して少しでも出てきたならば、恐怖心は薄れていきます。

しかし、悪魔は非常に邪悪な面がありますから、悪魔に害されないように防御する必要があります。力が強い邪悪な悪魔の場合、降魔退散させる必要があります。悪魔は簡単に、改心しません。襲ってきます。恐怖せず、心に隙を作らず、即ち強い信仰の信念で、守護霊や神に一心に祈る事が大切です。自分だけの力だけなら、私はとっくにこの世にはいないかもしれません。

余談ですが、K会の「仏説・降魔経」に確か、「汝らも(悪魔も)元は人間なり、仏性その身に宿すなら仏の慈悲がわかるはず」と書いてあったのを記憶していますが、これは厳密に言えば誤っていると思います。「悪魔は、元は神の子である」という認識が正しいと私は思います。生命が創造された時より、神の子です。「仏の慈悲がわかるはず」と悪魔に主張しても、神に反抗しているのが悪魔ですから、慈悲を感ずる心と逆の心があります。中々、解ろうとはしないのです。仏の慈悲を悪魔に押し付けるより、悪魔自体が「自分は、元は神の子である」という心を取り戻すような救いの説法が大切だと思います。今思い返すと、あの経典は非常に傲慢に聞こえます。悪魔に対してでさえ、慈悲の心で法を説いてこそ生き神といえます。

③一番大切なのは、愛の目で見ること
 
 人を悪魔視するのは、その教団が愛の思いに欠けているからです。信者を教団に縛り付ける為です。自己保身欲で自己責任から逃れる為です。これでは、絶対に教団の教えは広まりません。
これまでの説明から理解いただけると思いますが、この教団は悪魔視をさかんに信者に教え込むことで、悪魔を大量生産をしようとしているのではないかと感じます。これでは救世の逆であり世界の地獄化です。
救世運動は、人を救済する運動です。人を悪魔視する運動ではないのです。ましてや悪魔をつくる運動であるはずがありません。人を救済するのに、人を選別するのは真の教えではありません。愛の目、愛の眼差しがある方は、救いの言葉、優しい手を差し伸べます。裁きの目がある方は、人を裁きます。我欲の目で人を見る方は、人を愛さずに利用します。自己に有益でなければ、迫害します。
要は、どういう目で見るかが大切ですが、見方において明らかに誤っている場合は、教義が誤っています。
例えば、K会の教義の正見は、正信(=教祖への信仰)が先に立ちますから教祖の見方がそのまま正見になります。事実、信者は教祖を信じて同じように、見、言葉を発します。教祖が種村氏を悪魔と言えば、信者は種村氏に会った事が無くても悪魔視します。
しかし、それは狭い教団内だけの話で、世間で種村氏を悪魔呼ばわりする方は、一人もいないのです。書籍を読んだところで、一笑されるだけです。何故なら、良識ある世間の方は、そのような失礼な事は、決して言わないからです。仮に心で思っても口にはしないのです。これが、良識ある人間の姿です。

 悪魔視から逃れる道は、自己責任の思いをしっかりと持って、人を愛の目で見ることが大切だと思います。尚且つ、霊的な方は、根底に愛の心を持って、憑依等の現象を客観視する必要があると思います。
 愛の目で見るのは、自分自身に対しても同じです。自分や人は、悪魔の子では決してありません。神の子に間違いないのです。悪魔でさえ、神の子なのです。想いによって、天使であり、想いによって悪魔なのです。しかし、天使も悪魔も神の子です。神のわけ御霊です。悪魔は道を誤っているだけなのです。

 悪魔視を堂々とする教団は、真理真実を知りません。仏性、神の子と説きながら、実践が出来ていないのは、真理真実を知らないのと同じです。

まして、人間が悪魔の子という教団は、論外です。元々、人が悪魔の子というのが真実ならば、故郷の悪魔の住処に帰れば良いのです。しかし、実際に人は、悪魔には成れないのです。「あなた、悪魔になりなさい。そして人を害しなさい。不幸にしなさい。」と言われて、積極的に悪魔になりたいとは思えないはずです。悪魔は不幸です。何故ならば、人を不幸にしますから。人はやはり、光り輝くような向上、幸福を目指していくと思います。それが自然な感情だと思います。

悪魔視は洗脳教団の呪いです。悪魔を呼び寄せる呪いなのです。人を悪魔の道へと進ませる呪いです。「これより後、悪魔は粉砕せん」ではなく、それとは逆の現象が起ってきます。だから、教団内は、悪魔に支配されているのです。悪魔視が抜けない限り、幸福は訪れてこないと私は思います。

呪われた洗脳である悪魔視を今すぐに捨てて、愛の目を取り戻して欲しいと思います。そこにこそ、神の光があり、神の救いがやってくるのです。(X



3 件のコメント:

  1. 上手い事すり替えているようだが真実を知らない様だ。

    善人も悪人もあの世で同じ世界に存在する訳がない。

    何故ならあの世は「念い」が「即実現」してしまう世界だからですよ。

    例えば人を殺した人。というよりは人殺しが好きな人は、死んだ後あの世でも人殺しをします。

    もちろん、相手は人殺しをした人。もしくは人殺しが好きな人。

    そういう人殺しが好きな人が集まって、殺し合いをしているのが、「阿修羅地獄」と呼ばれる世界で、決して「人殺しが好きな人」が死んだ後行く世界が「天国である訳がない」というのは当然の結果である訳です。


    あの世は「三千世界」であり、念いに応じた世界に還る事になる訳ですが、どんな悪人も「天国に還る」のでは「自己責任」が伴わないし、仏教でいう基本原則「善因善果・悪因悪果」、「因果応報」、「自業自得」も意味が無くなってしまうので悪人が死後天国にそのまま還る。という事はないでしょう。





    > 愛の目で見るのは、自分自身に対しても同じです。自分や人は、悪魔の子では決してありません


    愛の目で見るのであるならば、悪人。つまり悪いことをした者はそれなりの処罰を与える事が、その者の魂の成長につながる訳ですが、当の本人は、何度生まれ変わっても前世の記憶が無いので、同じ過ちを繰り返してしまうので、「ラチが明かない」という事になっている様です。


    人間は「心」次第で善人にも悪人にもなれる訳ですが、それは「天使」にも「悪魔」にもなれる訳で、「どちらを選択するか」は、地上の人間一人一人に任せられている訳で、それがどちらを選択しても「自己責任」という意味で「自由」を与えられております。


    もちろん地上に悪霊や悪魔が溢れかえって地上が浄化されてしまう。という「自由」もあるのですが。


    ここがどうもアンチ共通で「理解不能」の様ですがね。

    自ら「悪霊・悪魔」に志願して死後、地獄に還る人も現代では沢山いらっしゃいます。

    ヤレヤレ・・・。

    返信削除
  2. コメントをいただきましたが、内容以前に、この文体ににじみ出る人を冷笑し、斜めに構えて見下す目線が、ORの洗脳の影響をもろに受けている方であることを露わにしています。その奥には選民意識があることを伺わせますが、これが世の中の人を反発させ、反感を買い、教団を衰退へと導いていることに気がつかれていないと思います。この教団の教祖は人を小ばかにしたような冷笑をともなう批判のコメントを多用しますが、その体質が信者の心にもみついて悪臭を放っているのですが、ご本人にはお分かりにならないでしょうね。私も常におのれを省みで、こうした洗脳の残滓が匂っていないかを反省して続けていきたいと思います。投稿されたXさんは、真摯な気持ちで、自分の反省を踏まえてご自分が心でつかまれた真実をられています。同じ過ちで苦しむ人を救いたいという愛の思いからです。コメントをくださった方との、発している波動の音色が明らかに違うと思います。それを少しでも感じ取ってくださって、言葉の奥にある思いの音色を反省していただければ、コメントをくださった方にとっても、気づきのきっかけになると思います。

    返信削除
  3. (Xさんからコメントへの投稿をいただきましたので、ここに掲載します。)

    貴重なコメントありがとうございます。
    本投稿は、天国にあなたのいう悪人と善人があの世で同場所に存在するという議論(本投稿では一切記していない)や自由とは責任であるという自己責任、縁起の理法等等を主張しているものではないのです。K会の愛とは「処罰を与える」ことでしょうか。
    そもそも教祖は、魂の救済を謳っていたのでは、ないでしょうか。悪人を悪人と見なすところには、裁きしか存在しません。そういう方があなたのいう地獄に落ちないようにする為にORは法を説かれていたのではないでしょうか。地獄界解消は仏陀の使命であったはずです。
    四正道の根底は、愛(与える愛)ですよね。ですから、ORが「敵の中にさえ仏性を観る」と説かれているように、悪人と見えし者の中の仏性を信じて愛し、愛の力で魂の救済をするのが宗教の役割ではないでしょうか。私はそう思います。釈尊は殺人鬼でさえ改心させたという話をORから聞いた事があります。それは、根底に愛の想いがなければできないですよね。だから、慈悲と智慧を説いているのではないのでしょうか。
    ですから、そういった実践をしてみてはいかがでしょうか。そうすれば、植え込まれた知識の壁が崩れて、相手の心をまず受容する心が芽生え、少しは私の投稿の本質を解って頂けるかもしれません。

    植え込まれた知識のみを全面に出して批判するのみでは、机上での、ただの評論です。本投稿は、私が経験(実践)してきた上で、反省を踏まえて記したものです。何かのテーマへの、ただの意見、評論ではないのです。(Xより)

    返信削除