2015年12月14日月曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ  悪魔視は洗脳教団の特徴①


(紹介)

人を「魔が入った」といって裁き排撃する行為を悪魔視と呼びます。悪魔視は、極端に人を裁く行為であり、相手を悪魔と同一視してしまう行為でもあります。その危険性について、自らの貴重な体験と反省を踏まえた投稿をいただきましたので、3回に分けてご紹介させていただきます。

(投稿)

(はじめに)悪魔視について

 K会は、三宝帰依を全面に打ち出しています。仏・法・僧(K会教祖・K会の教え・K会団体)を拠り所として、日々戒律を守り、正法を実践する「正しき心の探求」を基本としています。正法の中枢には、反省の法である「仏説・八正道」があります。「仏説・八正道」の中に、「正見」があります。「正見」を簡単に言えば、正しい物事の見方です。正しいとは仏(K会ではK会教祖)の説く真理です。つまり真理の目で見るのが「正見」であり、八正道の出発点になります。一見これは仏教の教えにかなった説き方なので正しく見えます。しかし、実際に様々な観点からK会を良識の目で見れば、K会で発展繁栄した方を私は知りません。

 K会は、三宝である仏・法・僧に対して、傷つける事は許されず、大阿鼻叫喚地獄に落ちるとはっきりと説いています。傷つけるとは、誹謗中傷など何らかの言動で三宝を害する行為です。何故、許されないのかといえば、偉大で尊い仏の救世活動を阻害妨害する行為(仏の計画を邪魔する行為)だからと教えられました。それ故に、三宝を傷つける者や傷つけようとする者は、仏に敵対する行為と見なされ、それは悪魔の行為と見なされるようになりました。仏に敵対する者は悪魔であると。悪魔の行為と見なされた者は、悪魔と同じもの(魔に入り込まれている)と見なされるようになりました。K会でよく耳にした、「魔が入った」という見方です。人を悪魔と同等に見なすのです。
これが、K会の特徴である悪魔視です。

当ブログ主催の種村氏もまたK会内では、悪魔と見なされています。私の場合は、K会を脱会しただけで、恐ろしい悪魔使いのように噂されました。恐らくそのように決め付けることによって、現役信者が脱会者の話を聞いて脱会しないように恐怖心を駆り立てて防御しているのだと思います。信者が脱会者に近づかないようにする為でしょう。
 K会教義に照らしてみると悪魔視は明らかに、K会の「正見」に反しています。何故なら、K会は菩薩を目指す集団であり、「菩薩は敵の中にも仏性を観る」と教義では教えているからです。菩薩は、「悪魔視」の体現者ではなく、「許す愛」の体現者と教義に説かれているからです。
かたや、「正見=教祖の目」ですから、教祖自身が行う悪魔視は正しいとなります。要は、教義が首尾一貫されておらず矛盾しているのです。これは、教祖のご都合主義の表れです。繋ぎ合わされて作成された教義であることが良く判ります。

悪魔視と洗脳

最近、私はK会だけでなく、悪魔視をする教団は、洗脳教団だということに気がつきました。悪魔視は洗脳に大きく役立っているように思います。K会を問わず、その教団が正しいか否かを判定する簡単な方法は、全てではないのですが、人間を「悪魔視するか否か」を見てみれば良いかと思います。
恐らくそういう教団は、世間から危険視され、何かを建立する時など、住民の反対を受けるような教団かと思います。世間の良識の目は正しい。危険と見えし言動をするから反対されるのです。世間の良心から逸脱した言動は、まず物事の見方に原因があると思います(「正信=正見」の誤り)。その中心的な要因が悪魔視です。悪魔視が付着した原因や悪影響、そこから脱する方法を、過去を振り返って記したいと思います(Xより)

1.人を悪魔視する方は、洗脳状態にある

①悪魔視は、教祖の説く法であり、信者は入会後に洗脳される

 私はK会に入会する前に他人を悪魔視した記憶がありません。どんなに酷い事をされた時も、「嫌な人」、「酷い人」とか色々心に思う事はありましたが、その程度に留まっていました。K会初期において、仏や法を強く批判して否定する方にお会いしても悪魔視するまでのことは無かったと思います。
年月が経つにつれて、様々なK会の運動がありましたが、そういう外に向けての正義の運動を経て、教団内で悪魔視が強くなっていったように思います。「悪魔の活動を許すな!」のような感じです。仮に教団の教義が正しいと仮定して、「具体的な悪を押し止め、正義(救世運動)を推し進める」という言葉は一見正しいのですが、問題は、教団が認識する悪の見方と正義を行使する心なのです。愛の目で見ているのか、それとも悪魔視か、教導したいのか、それとも裁きたいのか、これで教団全体の心と行いに天地の差がでてきます。K会の場合、徐々に「悪魔視」という見方が定着してきて、いつの間にか、教祖や法、教団を批判否定する人を悪魔視するようになったように思います。

信者に悪魔視が身についたのは、言い換えると悪魔視の洗脳がなされたのは、教祖が悪魔視をして、言葉を発し、書籍まで出版して信者に信じ込ませるからです。つまり、悪魔視は教祖の説く法(教え)が発信源という事になります。K会では、教祖の直説金口は法そのものだからです。ところが、教祖に都合の悪い裁判は、何故か信者に隠しているのですね。悪魔視は教祖が手本を示し、信者に植えつけた見方です。要するに洗脳です。悪魔視は教祖の私情だけでなく、計算された意図的なものを感じます。

②悪魔視は、本当の悪魔を呼び寄せる、悪魔になっていく

教団に入会する前と後で、悪魔視をする傾向が付着した方は、教団の説く偽真理に洗脳されていると思った方が良いと思います。何故なら、悪魔視は、正しい見方(正見)ではないからです。教団は信者の信仰心を利用して、悪魔視を肯定します。霊的現象や想いの結果としての現象に対して、主観を排した客観視をせず、人を本気で悪魔呼ばわりするのは正見ではありません。
例えば、支部が更に素晴らしいものになって欲しいという思いで、疑問や修正して欲しい点を発言したのにも関わらず、「魔が入っている」と言われて迫害された経験があります。正見ならば、「支部が良くなる為に、気がついた点を言って頂いて有り難う。」となります。相手が悪魔には見えないはずです。

悪魔視は、良識的な見方と感謝を排します。相手を押し下げて見下して憎みます。「与える愛」ではなく、相手の心に傷を与えます。他人に対して和解の機会を持たず、きつい言葉で攻撃します。悪魔視は、相手を生かさずに、裁きます。これは、正思、正語に反します。
悪魔視をすれば、悪魔視の見方で行動してしまいます。本当の悪魔は、悪魔視へと誘導します。悪魔視からの行為は、悪魔の行為へと導かれていくのですそこには、必ず自我我欲があります。自我我欲を満たす為なら、悪魔の誘導を正として、法を都合の良いように捻じ曲げてでも事を成して行きます。事実、種村氏は書籍を出版されてまで、信者に悪魔だと風評されるに至りました。これは、正業に反します。四正道の根本、「与える愛」に反します。
また、いくら反省しても悪魔視の傾向がある以上、真の反省はできません。何故なら、自己責任ではなく、悪魔のせいにするからです

霊的な方で、悪魔がいつも近くに寄って来ていると感じて来られた方は、悪魔は、寄るべくして寄って来ていたのです。「隙あれば、魔あり」は確かですが、「悪魔視あれば魔あり」が真実に近いのです。何故ならば、悪魔視は、悪魔の指導だからです。既に悪魔は傍にいて、最初から悪魔の指導を受けているのです。さらに真実をいうならば、悪魔視は、悪魔視している本人を悪魔にします。悪魔視する人の心が悪魔になっているからこそ、悪魔が呼び寄せられてくるのです。そして悪魔視は人を悪魔化するのです。
ですから、教団内では、愛や思いやりとは逆のものを感じることが多いはずです。たとえばK会では、説法の機会は万人に平等に与えられているのではなく、まずお金が先にたって、お金がないことに悩む機会になっているはずです。「法話や研修を受けたくても受けられないのです。何故なら、お金が無いからです。」というようになっていないでしょうか。

余談ですが、信者の純真な心を思い出すと涙が出る思いです。
「家族の為、子供の為に悪霊撃退祈願を受けたいけれど、母子家庭でお布施のお金が無くて受けられないのです。」
という方や
「家族みんなで大黒天祈願を受けたいけれどお布施のお金が無いから受けられないのです。」
という信者が、他の方が受ける際に傍らで参加して、自分たちの名前は呼んで頂けないけれど、必死で像に手を合わせて、家族の為に祈っていた姿を今でも思い出します。本当に純粋な心です。家族への愛です。教祖は、こういった信者の心を本当に感じとれた事があるのでしょうか。母子家庭で貧しい方ができる限りのお布施をして、世界が幸福になることを祈っている姿を見たことがあるでしょうか。多いに疑問です。 

教祖は自分の像や写真を通して自分に祈らせています。それで教祖が信者の切実な祈りを認識出来ていないのならば、その生き神信仰は誤りになります。悪魔視をする教団の教祖は、信者の思いを認識できていないと思います。
もし認識できているのならば、純粋な心ある信者に他人を悪魔と見るような教えを説きはしないでしょう。幼稚園の先生や親が子供に、あの人は悪魔化していると教えるでしょうか。教える事はないでしょう。悪魔視を教えるのは、教祖の罪を正当化する為であり、信者を教団に縛り付ける為だと思います。悪魔視を理由に自分を正当化する方向へ信者を誘導しているのです。

K会の祈願で見たもの

私もその祈願の時に参加していましたが、残念ですが導師を指導していたのは、悪魔でした。お金主義の祈願は、祈願自体が所詮は我欲なのです。悪霊撃退祈願というのは、そもそも人を悪魔視した結果、(祈願を)受ける要素が濃いものとなっているのです。だから、悪魔が寄ってくるのです。
祈願を受けた方の中には、急に頭痛がしてきて、夜に幻覚が見えて来たと、私に連絡が有りました。魔の憑依です。しばらく、私と話していると気も晴れてきたのか、治った様子でした。それ以降、その方は悪霊撃退祈願や他の祈願を受けるのは一切止めました。やがて、その方は、脱会しました。

更に、支部で悪霊撃退祈願の際、何体もの悪魔が揃って導師側の席に居たのを見たことがあります。最初は信じられませんでした。何回か見返してみましたが、やはり悪魔でした。私は不思議に思いました。邪魔をしに来ているのかとも思いましたが、悪魔は非情におとなしく整列していました。その時は、邪魔しに来た所で手も足も出ないのだと安心していましたが、今思えば、悪魔が指導していたのだとわかります。
洗脳による信仰は、盲目に等しい。悪魔視もまた盲目の中で行われているのです。

自分に対して発せられた言動だけを見て、相手の苦悩を見ようともせずに、相手を悪魔にして自己の責任を逃れようとする傾向が身についたなら、今すぐに直していかないと中々取り去れないかもしれません。悪魔視をする方が楽なのですから。
実りある人生を歩む上では、人を悪魔視することは、あらゆる面で損な選択だと思います。世間は教団内部とは逆で、悪魔視を行うから、世間から迫害を受けるのです。悪魔視を続けていけば、没落していくと思います。自分が悪魔化してゆくからです。今すぐに止める努力をしていきましょう。(X
(次回に続く)


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