2015年10月7日水曜日

「信仰の丸飲み」について・・・幸福の科学職員時代を反省する①



1.信仰を丸飲みする癖

KKの職員だった時に付着した「心の癖」を分析し、自己反省したいと思います。

それは自分が無意識にKKに飲み込まれた行動をしないために必要だからです。

これが誰かの参考になればと願いながら公表したいと思います。

KKの職員時代には、会の方針が3年ごとにがらりと変わるので、常に新鮮でマンネリしないように感じていました。

OR氏は、これはイノベーションであると説明していました。

イノベーションには体系的な廃棄が伴うので「過去との連続性を問題にしない」という「思考の癖」がつきました。

同時に、「言われたことを丸飲みして信じる」という「心の癖」もつきました。

その結果、踏みとどまって考えて、本当に自分の心で納得し、自分の心に正直に生きるという姿勢が棚上げになっていったと思います。

(注)ところで、後から変更される法を説くのが仏陀ではないでしょう。歴史上の釈尊は相手の機根に合わせて法を説いたのであり、あとから修正する法など説いていません。これを間違うと釈尊に対して大変失礼なことになると思います。

2.方便の時代は終わった、という信仰指導

過去との連続性を問題にしないという癖は、「方便の時代は終わった」という宣言の時に、決定的になりました。

この時期、私は事務局長や編集局長になっていたので、会の中枢にいました。

この少し前の頃からKKは悪魔に飲み込まれていったとXさんは分析しておられましたが、(たぶんその通りだと思いますが)、この時期に総合本部の中枢にいて何ら違和感を自覚していなかったのですから、私はその責任を免れないと思います。

当時は高橋信次氏の扱いが180度変わった時期でした。そして会の中からその影響を一掃する時期でした。一掃する手段として、仏教路線を使ったのです。

私が一番印象に残っているのは、「三宝は仏法僧の順に尊いのであるから、仏である私は法を自由に修正でき、何が法であるかを決定できるのだ」とOR氏が宣言したことです。

これにより、過去に説いた教えと如何に矛盾したことを説こうと、それは仏陀の当然の権能の現れであるということになりました。つまり過去に説いたことと真逆のことをいっても、すべて免責されるということになったのです。それが仏陀への信仰として強要されました。

元GLAの人は高橋信次氏への評価が180度変わったとこを批判していたのですが、それは真の仏陀への信仰がないことだと厳しく批判されました。

こうして過去の教えがどうであろうと、現在ただいま出されている教えや方針に無条件に異議を挟まずに信じなさいという指導がなされたのです。

それができない職員は、素直さがないのであり、素直さの欠如は信仰心の不足であると批判を受けました。実は私もそれ以前からそうした批判を受けていた一人でした。

3.思考停止はこうして始まった

こうした指導の結果、職員に何が起きたかというと、過去の教えに照らしてOR氏やKK教団の方針の正否を検証するということが一切できなくなり、それについては「思考停止する」という癖がついたのです。

過去になにが説かれていても、現在ただいまOR氏が説くことが全てであり、完全にそれに従うことが信仰であると、そう受け取るようになっていったのです。

その結果、高橋信次氏への評価が180度逆転したのは、OR氏のもともとの悟りの未熟を表わすものではなかったのかという批判が起きませんでした。批判した人はすでに去っていましたから。「高橋信次氏はKK教団を乗っ取ろうとしていたのであり、その結果、自分の正体について嘘をついていた」ということが言われました。そして「大きな力のある仙人だったので、なかなかその嘘を見破れなかったが、仏教路線が進み、仏教の教学が進むと、偽仏陀を名乗った高橋信次氏の正体が見破れた」と言ったのです。私は職員として、そのまま信じました。

ここから、その後のKK教団への批判や分派活動の裏には、常に高橋信次氏が暗躍しているという神話が創り上げられました。

私がOR氏を諌める手紙を書いたり、納骨壇の申込金などの返還訴訟に協力したことまで、そのバックには高橋信次氏がいるかのように言われました。つまり、高橋信次氏の存在は、KKでは悪の象徴になったのであり、教えの不備や過去世認定の間違いも全部、高橋信次氏の責任にすれば、OR氏は免責されるという構造が出来上がったのです。

私も自分への批判として高橋信次氏が担ぎ出されるのを見て、さすがにその異常さに気がつかざるを得ませんでした。私はもともと谷口雅春先生を師と仰いできた人間であり、高橋信次氏の影響は書籍のみを通しての限定されたものでしかなかったからです。

高橋信次氏の当初の指導がすべて間違いだったとすると、OR氏に霊としての高橋信次氏が「あなたが真の仏陀である」と伝えた霊指導も疑わねばならないことになりますちなみにこれは改訂版『太陽の法』で加筆された部分です。

しかし、こうした矛盾や疑問も、職員時代には持つことができませんでした。OR氏は法を自由に創造できる至高の存在であると信じこんでいたからです。

丸飲みして、過去の教えとの矛盾にも目をつぶると、思考停止が生じます。理性的な思考ができなくなります。なぜなら理性的に思考をすると「合理的な疑問」が生じるのですが、それは「疑い」という心の毒に染まると教えられていたからです。「疑い」は悪魔にそそのかされた行為であると教えられ、最も忌むべきことであると、繰り返し指導がなされました。


4.職員の自己保身

丸飲みして信仰し、教えとの矛盾にも目をつむるためには、思考停止せざるを得ないのですが、やはり従来の教えとOR氏の行動や教団の方針の乖離(かいり)には疑問が起きてきます。

その疑問に対しては、可能な限り自分で受け入れることができるように説明を考え出しました。そして職員として講師としてそれを合理化する説明をしてゆきました。それが仕事であり、習性になっていったのです。

それでも説明しきれないものは、「主には深いお考えがあるのだ」「その深いお考えは、何か理由があって我々には秘されているのだ」と、そう説明をしていました。思考停止することの合理化をしたのです。これは職員をやめて在家になっても続きました。愚かさの極みでした。

なぜそこまでして、丸飲みしようとしたのでしょうか。今思うのは、恐怖心があったのだと思います。それを疑うと信仰のロープを切られて、悪魔に連れて行かれてしまうのではないかという恐怖です。

もう一つは、その疑問を口にすると、職員の立場でいられなくなるという恐怖です。職員にとっては、生活の基盤と特権的な名誉心の基盤を失うことになるので、それはすごく怖いことでした。

この二つに共通するのは自己保存(言い換えると「自己保身」)だと思います。自己保存(自己保身)のためにイエスマンになって、上司や社長に唯々諾々と従うというのは、サラリーマンの世界ではよくあることです。要するに私はサラリーマン化した職員であったのであり、真理の探究者・求道者もしくは真理の行者ではなくなっていったということだと思います。

こうした職員時代の心の癖を取り払って、真理の探究者・求道者、そして真理の行者であり続けにはどうしたらいいのでしょうか。

自分の心が明らかに伝えるものを信じ、自分の心に正直に生きることであると思います。

そして自分の心が正しく判断するように、常に心についた汚れを祓い浄める努力を怠らないことであると思います。

<連絡先>
種村修 ℡090-8051-8198
メール:tanemura1956@gmail.com

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