2015年9月27日日曜日

(投稿)恐怖心は、克服できる② -脱会者からのメッセージ― 



(前回からの続き)

4.KKはこの世の成果で成功を図り、信者に自己犠牲を強い、
  現実の渦中で強い恐怖心を植え付けていく

KKの繁栄の為に犠牲になった信者

KKは発展繁栄の教えを説いています。人生成功の捉え方において、この世で成果を上げなければ成功者ではないという想いを強く持たせます。確かに成功しないよりされた方が良いと思います。経済的な苦痛は本当に苦しいと思います。「仏の法を学ぶKK信者は発展繁栄して世の中の指導的立場に立って欲しい」という言葉もありがたく聞こえます。KKは色々な所から引用しているようなので、良い教えもあります。

しかし、KKに所属し活動した人生は悲惨なものになっていきます。例えば、教義では、「他人を幸福にすることは、自分が幸福になる道」と説いていますが、良くなっていった(経済繁栄した)のはKKの方で、信者は地獄を見たわけです。その結果、徐々にKK自体も衰退しているのではないでしょうか。

KKは信者によって教団運営や職員の生活が生かされているわけです。その信者から金銭を搾取し続けて、尚且つ信者の血に染まった大切なお金で贅沢し無駄遣いして、一番幸福にしていかなければならない信者を道具のように扱って不幸に落として、教団が維持できるはずがないのです。KKは一時的に発展繁栄を成したでしょうが、その繁栄は信者を犠牲にして実現したものです。これは、完全にKKの法にも反します。真理に反していてもこの世では一時的に繁栄します。

KKの活動自体が愛の体現といいながら、実績評価になっていきました。何の為か? KKの勢力拡大と収入(お布施)を増やす為でしょう。教祖がこの世的な力を手に入れる為でしょう。その為には手段を選ばず信者の人生や生活のことを微塵も気にしないやり方は、異常性をもった組織と言えましょう。

②信仰心において自己犠牲を産みやすい教え

「他人を幸福にすることは自分が幸福になる道(成功する道)」というのは、一歩誤ると自己犠牲を生み出します。ただこうも言っています。「自分の成功が他人の幸福に繋がるようなものでなければ真の成功とはいえない」と。つまり「自分の成功」は「他人を幸福にすること」となります。確かに、これは正しいと思います。悪い事をしてまで繁栄することは心あるKK信者なら誰も望まないでしょう。KK信者の多くは元々善良な気質があり、心の優しい方が多いのです。ですから、他人の幸福の為に自己犠牲を選択しがちになるのです。

色々な職場を経験しましたが、現代は自分のことしか考えない方が多くなったように思えます。私もお人よしなところを利用されてきたように思います。「仏は全てお見通しで、必ず正しい者を繁栄させて下さる」という信仰の想いがKK信者は強いわけですから、信者は「自他共に幸福になる道」として何もかも当てはめて他人の為に良くあれと願い行動してきたのです。ですから世界の平和の為に家庭生活を破壊していくような無理なお布施もしてきたのです。

しかし、肝心な教祖様がどうしようもなく凡人と化していたとは、中々気づかなかったのです。お金がどんどん入って喜んでいたのが教祖たちだと思います。その裏で信者は苦しみぬいた。これで日本や世界が救われる、教祖様が国連総会で弁論されることも心から願ってきました。だが、結果は教団が大きくなっただけで、教祖様は高価なものを身にまとい、信者は貧しくなり、信者の期待を一心に背負った選挙には落選したのです。

③仏への他力依存だけでは、自分は救えない

又、上記のような抽象的で単純な成功法則では、生き抜けない時代にもなっています。私も体験しましたが、愛の思いで信じて騙されたりしました。騙すほうは本当に手馴れていて上手なものです。平気で人の人生を自分の為に利用して用がなくなれば追い出すような経営者もいます。その経営者には常に悪霊が憑依しています。それでも三次元では今も会社が存続しています。成果で成功を図るなら、これは成功になります。

しかし、これは「人生の成功」ではありません。そういう悪からは「加護され正しいものが発展していく」と信じていても、全く逆の事ばかり起こってしまいました。「他人を幸福にする」中で、明らかに自己犠牲になってしまう状況があり不安でした。本来なら自己犠牲にならないで「自他共に発展していく」という道を取るべきなのに、「仏が必ず繁栄させて下さる」という信仰心で、その努力を消してしまいがちになります。「幸福は仏が下さる」という他力信仰に陥っていくのです。

自己犠牲が予測されると強い不安や恐怖心が湧いてきます。本来ならば、現実面に即して対処して自分が犠牲にならないようにしなければいけないのですが、信仰心が邪魔をして本来の判断を狂わしてしまうのです。信者は、仏という他力に依存する傾向が強くなっているのです。ですから、自分自身を自分の力で護らなければならない状況でも「仏が護って下さる」とか「○○祈願」になってしまうのです。そうすると祈願代とかに、またまたお金がかかります。

しかし、仏を信じていくら祈願を受けたり、教えを実践していても、例えば会社で悪者にされたり、悪い立場に追い込まれたり、親しいものに騙されたりとたいへんな不幸が襲ってきます。これは、初期の頃の修行論が消えているからです。もはやお金集めの修行論になっていますから、初期の教えと現実の行動が合致しないのです。

④仏の加護の元で不幸が続くと、強い恐怖心が植え込まれる

 このように自己犠牲的な不幸が続いていくと、徐々に敗北感が芽生え、また同じような事が起こるのではないかという恐怖心が湧きあがって来ます。そういう時は、心の中で必死に仏に祈ったり、守護霊にお願いしたりしますが現実には何の効果もないのです。そして自分の心が混沌とした不安や恐怖に悩まされるようになります。仏を信仰しても「救われない自分」を感じます

しかし、信者は、「これには深い意味がある。全て仏にお任せする。」というような思いを持って頑張ろうとしますが、結果は変わりません。これは怖いことなのです。信者は毎日、根本経典を唱え、支部で拝礼し信仰を深めていますが、生き神である教祖様への信仰を日々持ち続けても尚、不幸が押し寄せてくるのです。当人は「何故、護られない」、「救われない」とか「カルマがきつい」、「仏の試練」とか様々な思いが出てきます。これは、強い不安や恐怖心を、KK教義や信仰上で常に考えているのですが、そうしている内に恐怖心や対人不信に支配され抜け切れなくなっていきます。

KKは悪をなす人を悪魔視するから、現状を魔の攻撃と判断して、祈願を受けたりします。これは本当の反省ができていないのです。だから、現状が打開されないのです。

やはり、他力に依存せずた自己変革を決意して現実面をしっかりみすえて自力で頑張らないと現状は打開されません。私の場合は、以前よりかなり弱くなっている自分が在りました。他力に依存するからです。

(他力を否定しているのではないのです。他力は必要だと思っています。依存が問題だと思っています。自分を弱くずるくするからです。)

注)KK教義の反省手法では、本当の反省はできません。経験済です。

⑤人生の成功とは、成果だけではない

しかし、これは人生の敗北ではありません。人生の成功や敗北はこの世の成功や敗北で決まらないと私は思います。KK初期においては悟りが最優先で求められていました。人生の成功は、カルマを解消して悟りを得て魂の向上をはかって天上界に返るという修行論が優先されていたのです。

しかし、この世の成果を人生の成功とする教祖の傾向が、途中から強く教えにも現れたのだと思います。「心の向上」こそが人生の成功で、その過程において他人を幸福にし、自分も繁栄していくのが本道だと思います。根本の「心の向上」の努力を抜きにして、他力信仰だけでこの世の繁栄を望み「他人を幸福にする」を道を選択しても自己犠牲になっていきがちなるではないでしょうか。あくまでも、主体は自分であり、仏ではない。自力で悟りの向上を努力するから他力があると思います(初期はこの教えだった)。

言うべき所は言い、認める所は認め、引く所は引き、判断する所は自分の頭で判断し、成すべき事を自力主体でしていく事が大切だと思います。(続く)

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