2015年9月23日水曜日

(投稿)「呪縛」からの解放3 ―信仰を問う―


(前回から続く)

(投稿)

1.伝道活動に駆り立てたもの

自分はなぜ伝道活動を続けるに至ったのか。
確かに「恐怖心」によることもあったのだが、他にも「活動をさせんがための誘導」があった。これは、他の信者の方も共通して持っているものであると思う。
伝道活動の初期の頃、このように言われたことがある。

「今ここに集われている方々は、これから日本の中でリーダーとなって行く方々です。やがてK会の教えは広がって行き、やがて日本のあちこちの地域から、やがては世界の国々から教えを求めて多くの人々が集まってくるでしょう。その時に、人々を指導し導いて行く人たちが必要なのです。それがここに集った私たちなのです。今ここに集って少数の方々は、これから来るであろうユートピア社会を築き上げる土台ともなるべき人たちです。そして、必ずやユートピアを築かんとして、仏と約束して、仏と共に下生した存在なのです。」

それは、普通に生まれてきた一般の人々とは違う「特別な存在」なんだということを暗にほのめかしていた。そして、霊界階層説がK会の教えの中核であったから、「あなたたちは、比較的霊界の上の方から生まれたのだ」と。そこらの一般の人々とは違うんだ、ということを、信者たちは言葉には出さないにせよ、意識をしていたであろう。
実際に自分はそういう何とも言えない「特別意識」を持った。そして、それが活動をする中での、心の支えでもあった。そうでもなければ、誰が好き好んでこんな活動をするだろうか。この「特別意識」というものもまた、ORK会の呪詛でもあり鎖でもあったのであろう。

ただ自分は多くの矛盾を感じていた。
 K会の支部集っている人たちには、もちろん社会的に立派な地位にいる人もいたが、多くは「本当にこんな人たちが、将来日本のリーダーになる人たちなのだろうか?」と感じる人たちであった。職にもつかず、宗教に逃げているような人たちもいたし、職員でも、「こいつが?」と思ってしまう人もいた。私には、単なる烏合の衆に見えたのだ。そして、自分に対しても、心も奥では到底リーダーになれる器ではないということを感じていた。「この人たちはリーダーの器ではない。だから同じ場にいる自分もまた同様であろう。」と。そして、「特別意識」を意識すればするほど、それを否定するかのように「劣等感」も強く感じるようになっていった。結局は、そうした思いを「信仰心」という言葉で誤魔化し正当化した。

2.「信仰心」の作用

 「信仰心」という言葉は、K会にとっても信者にとっても便利な言葉であった。何でも「信仰心」といえば正当化されてしまう。活動でもなんでも、やっている意味について深く考えなくても、「信仰心」の一言で片付いてしまう。

「自分たちを動かしているのは『使命感』であり、『信仰心』である。ORも言っていたではないか。『われわれの存在は、使命そのものである』と。」

そして、信者は「信仰心」という言葉を安易に使いすぎたゆえに、「信仰心」について深く考えることもなく、ORから示された、自分たちにとって都合の良い「信仰心」を自らに植え付けることになってしまったのだ。

人間のみならず、神にも階層や順位をつけたがるのが、K会のそしてORの特徴だ。
そして、信者もその思想を受け入れ、そうした意識で世の中や人間を見る。
「自分たちは救う側であり、『特別な存在』だ。この世的にみれば、『ごくごく普通の存在』に感じられるが、霊的に見れば、私たちの方が上位の段階にいるのだ。伝道される側は『救われる側』であって、『特別な存在』であり『救う側』である私たちの救いの声を無視するのは、つまり伝道している私たちを無視するのは、あなた達が悪いのであり、この救世の教えを理解できないことに問題がある。私たちは『特別な存在』だから、こうした高度な教えを理解できるのだ。」
こうした屈折した思いが信者の心の奥底になかっただろうか。信者であった人は、こうした思いを意識的にせよ無意識的にせよ持っていなかったであろうか。

O R 氏は地球系霊団の主であり、いやそれ以上の存在である。この宇宙創生にも関わられた存在である。そうした偉大なる存在を信じ付き従っていくのが、私たちの『信仰』であり、生きる道である」

こういうことを、繰り返し言われてきたし、自分自身に対しても言い聞かせてきた。
 しかし、心から納得することはなかった。自分自身の心の奥では「真実」を知っていたからだ。当然、心の中では葛藤や反作用が生じ、その結果、心の中に歪みが生じる。私の場合は、強い「劣等感」が反作用として生じ、それを誤魔化すために「信仰心」で押さえつけた。そしてますます心を歪ませていった。
ゆえに、信者が深層的に持っていた「特別意識」というものは、信者の心の中に確実に毒を撒き、自分自身を見つめる「正見」の目を確実に曇らせてしまう

3.「信仰心」の中味を検証する

K会における「伝道」や「信仰心」は他の原始宗教、いわゆる仏教やキリスト教の時代のものと同等のものであると、いや、かつてキリストを指導された方であるから、それ以上のものであると言われてきた。かつて、その時代に身命を賭してきた方が生まれ変わり、今このような救世の時代に集っているのだ、と。講演会では、「命を布施せよ」とも言われたこともある。今必要としている「伝道」や「信仰心」は、その時代と同等かそれ以上であるということを言いたいのであろう。

しかし、K会でいう「信仰心」とは、キリスト教のそれと同等のものであろうか。
まず、「信仰心」に、対する動機からして、根本から違っている。
原始キリスト教の「信仰心」とは極めて純粋なものであった。キリスト教の教えに触れた人達は、一様に心が満たされ、幸福になった。イエスは、この教えを伝えよと言ったであろうが、「いついつまでに、どれくらい」というような強制を課したであったろうか。イエスの奇蹟や教えを見聞きし、それによってその人の内から自然に沸き上がってきた「信仰心」を大切にしたのではないだろうか。だからこそ、まさしく身命を賭した伝道ができたのであろうし、キリスト教という教えが2000年もの間続いているのではないだろうか。

 一方K会の「信仰心」はいかなるものであろうか。
 K会の「信仰心」とは、極めて不純なものである。K会の教えに触れ活動をしている人たちは、恐怖心を植え付けられ、不幸になっている。ORは、伝道にノルマを課し、「信仰心」を強要する。たいした奇跡も起こさず、自分たちの都合の良い「信仰心」を押し付け、恐怖の予言によって信者を見えない「鎖」で縛り付け、あげくの果ては、「植福」と称して、信者から金を巻き上げ続ける。まさしく、カルト宗教そのものであり、世界宗教になるどころか、選挙でも何の奇跡も起きず、衰退の一途をたどっている。
 キリスト教の「信仰心」とは似ても似つかないのは明らかだ。

 私は退会後、K会の、いわゆる「信仰心」たるものは、押し付けの「信仰心」であって、心の内から出てきたものではない、ということに気づいた。もしK会の「信仰心」がキリスト教のそれと同等のものであるならば、「信仰心」持てば持つほど劣等感や恐怖心が増大することはないだろう。事実、信者である方や、信者であった方の多くが、恐怖心に、よって苦しんでいる。
 K会への布施も「信仰心」の表れとして称賛される。本当に、「信仰心」の表れであろうか。K会信者は「救いたい」という表向きの動機の裏に「救われたい」という意識を深層的に持っている。「植福には、三輪清浄が必要」と謳っておきながら、実際はそうではない。例えば植福菩薩などのように、布施をしたら来世においてそれなりの報いが約束されるなどの「見返り」も暗にほのめかしている部分もある。
布施をするときは三輪清浄にあっているか、自らの心を省みなければならない。それが釈尊の説いた布施の原理であり、それがあるからこそ「布施」が修行として成り立っていたのだ。K会は、初期の頃は「三輪清浄」の話をしていたが、徐々に植福の金額目標を設定するようになり、「信仰心からの布施」と称して信者に植福を強要するようになった。「植福」としての価値は完全に失われ、ORやK会を利するための集金システムへと変わっていった。信者も、本来の「植福」の意味を深く考えず、それを「信仰心」の結果出た行為としてのみ受け止め、そこで思考停止をしてしまう。ここでも「信仰心」が便利なツールとして使われているのだ。
「救われたい」と深層的に思っている信者の方々は、「金さえ出せば救われる」と、やはり深層的に思っているに違いない。実際、私がそうであった。退会後、自らの心を振り返っていく中で、このような思いを深層的に持っていたということに気づいた。それは、本来仏教で言われていた「布施」や「植福」の本質とは全くかけ離れたものであった。悲しいかな、「信仰心」という言葉に惑わされ、せっせとお金を巻き上げられていただけだった。お金だけではなく、貴重な時間までも。

4.真の神からの問いかけ

 たとえ退会して、K会の縛りから解き放たれた後でも、「恐怖感」に苦しめられている方も多いと聞く。「良い」と思って受け入れ続けたものは、心の奥まで深く染み渡ってしまう。特に「信仰心」とは人間の思想の根源的なものであるので、これを「良きもの」して受け入れてしまうと、さらに奥深くまで入り込んでしまい、完全にぬぐい去るのはいっそう困難になる。
 K会から植え付けられた「恐怖心」から解放されるには、K会の「信仰心」とは全くの偽物であることを心から納得し、真実の「信仰心」を自らの手でつかみ取ることが大切であろう。

「恐怖」というものは、たとえて言えば、ある小さな物体が光を背にして映し出された「影」のようなものだ。小さな子猫でも、光を背にして映し出された影の大きさによっては、それが「トラ」に見えるかもしれない。実体を知らない人は、それは本物のトラだと思って恐怖しているにすぎないのだ。
 恐怖に取り憑かれると、その恐怖が限りなく大きく見える。そしてそれが、実体を持って自分を襲ってくるかのような気がして、さらに恐怖を拡大視する。しかし実体は、小さな子猫がじゃれている姿が影として大きく映し出されたものであるかもしれない。
 K会の「恐怖」とは、まさしくこのようなものであろう。ORは、自分に対する信仰を手放したら、無限の地獄で彷徨うことになるだろうと言った。しかし、実際は手放さないと幸福になれないし、つかみ続けていたら、それこそ彼と一緒に無限地獄に堕ちることになる。

 エドガーケイシーやヨハネの預言の霊言にいたっては、選挙で負けた腹いせと、責任転嫁が目的で「創作された」ものであり、この霊言(正確には霊言風造作書)に信憑性などなく、かなりの毒を含んだ「悪書」にすぎない。
K会の洗脳から解き放たれるには、映し出される「恐怖」の影にとらわれることなく、映し出される実体を見極めなければならないと思う。そう、私たちを苦しませ続けている「恐怖」とは、実体のない、根拠のないものであるということに「確信を得る」ことが大切であると思う。ORは救世主ではないということが明白になったのであるから、彼の袈裟衣から手を離すことが「幸福への道」である
 それでも、未だ手を離せないでいるものの原因となっている「恐怖」というものが、どこから来ているのか。それを探ってみてほしい。

私たちは、本来の「信仰心」を発揮できないように、誤った「信仰心」によって蓋をしてしまった。誤った信仰心を取り去るには、本来の内なる「信仰心」というものに気づくことが必要だ。
本来の信仰心とは、自らの内にあり、内から発せられるものだ。私たち一人一人の心の奥にあり、その人の持つ「信仰心」を発することによって、そのひとは一段と強くなり、幸福になっていく。私たちは、本来の「神」とつながっているのであり、それぞれの人の心の奥にある「神」に気づき、その特性を発揮させること。それが本来の「信仰心」であると思う。そうであるから、私たちは自分自身を価値ある存在であると思えるし、そこから本当の「自尊心」というものが生まれてくる。さらに、一人一人の中にも「神」が存在するから、周りの人も自分と同じように尊い存在であると認めることができる。
そして私たちは、個々の独立した「個性ある存在」であると同時に、神ともいうべき「大いなる存在の中の一部」であるということを、「教えられることによって、わかった気になる」のではなく、「心で感じることができる」ようになる。
K会での経験は、私たちにとって、「本当の信仰心とは何か」という、神からの問いかけであり、一人一人が「本当の信仰心」をつかむための材料として、私たちに与えられたものなのかもしれない。


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