2014年6月1日日曜日

差別観の克服(3)・・・K会の心のシミをとる③―3


(前回から続く)


6.K会の選民思想のルーツ


K会の価値観について、もう一度整理したいと思います。


まずK会では平等観(平等)と差別観(差別)の思想は、可能性において平等、結果において差別という思想になっています。差別という言葉は露骨なので、通常は「公平な処遇」という表現等で表わします。

このORの平等観と差別観の思想は、受験社会の延長線上です。競争に打ち勝ち優秀な成績をとりさえすれば、誰でも東大に入れるが、怠ければ入れないというのが受験社会の基本的な価値観です。この競争主義の思想を心の世界に押し広げているのがORだと思います。

受験社会の競争主義は、私自身が学生の頃からその価値観の中で生きてきており、その中での劣等感と優越感の間をアップダウンしてきました。通算すると学生時代からK会をやめるまで、実に半世紀近くその価値観で考えていたことになります。

K会の価値観は、東大を頂点とする受験社会の競争社会の価値観を宗教的に転用したものです。受験社会の勝者の本音は次のようなものでしょう。

「東大に入っても、そこでできる奴とできないやつが出て、できる人間は出世コースに乗り、できない人間はさえないコースに入っていく。しかし、東大生は天下の東大生であり、ほかの大学やそれ以下の学歴の人間とは全く違うエリートである。」

これをK会に置き換えると、「東大」がK会に、東大の「できる奴」が〇〇菩薩や講師、指導員や幹部に、「できないやつ」が平の職員や一般信者になります。しかしいかに出来が悪くても、東大に入ったというだけで一般人とは違います。この価値観のフィルターを通すと、ORを信じる人以外は「非東大生」扱いになりますし、信者や職員は自分たちを「東大生」扱いします。

東大に入れなかったできの悪い人たちは、エル・カンターレを信じない人間ということに置き換えると、K会の選民思想がはっきりと理解でます。それは競争主義を取り入れた選民思想であり、かつての白人の人種差別思想も似たような構造があると思います。心の中に一種の身分制度が生まれるのです。

 
7.差別から個性と役割の尊重へ

本来、選民思想につながるK会の平等と差別の価値観の代わりに、いかなる価値観をもつべきでしょうか。私はこう思います。

人は何人も根源の神や宇宙意識と呼ばれる大いなる生命が分化した存在であり、その意味で価値的に平等に尊い存在である。存在の価値においては平等であり、その役割において差異がある。それぞれの個性がその個性に応じた役割を持っている。ゆえに何人もお互いの役割を等しく尊敬し尊重するべきである。

この価値観は、平等観と愛をより強調した思想です。様々な人がそれぞれ個性をもって存在している以上、単一のゴールに向かって競っているかのような受験競争型の価値観は、人間をどこまでも順位の序列で見ることを強い、自分が上か下かで常に心が揺れる状態へと陥らせます。そして愛を消してゆきます。K会の末路を見て、私はそのような結論に達しました。そこでもっと個性の違いを尊重した価値観に転換するべきだと思うのです。

 
 これは実は日本の文化にかかわる問題を内包しています。日本の心理療法の草分けである河合隼雄氏は、「日本人は身分制度をなくしたけれども、心の中にまだ持っている」と指摘していました。「『大学出』というのが身分だと思って威張っていた時代もあったし、みんなが大学に行き出したら、大学にランクづけをして、それを身分みたいに思っている。」(『私が語り伝えたかったこと』)

確かに心の中の身分制によって、親は必死に子供に受験勉強をさせています。その流れと、個性が無視されて集団主義になりやすい日本人の傾向性はつながっています。

「身分というのは個性の反対なんですよ。一人ひとりの個性を考えたら身分なんて関係ないね。ところが個性を大事にすると、皆がお互いに一人ひとり判断しあって一人ひとりかんがえてやっていかなければいけない。」

 つまり個性をもつということは独自の判断が求められて、大変しんどいことなのです。身分制の便利さというのは、「誰かが何か言い出しても、分相応にやれということでもってパッと収められるでしょう。個人としての判断というのが全然なしですまされるわけです。」というところにあります。そうなると各自が自分の責任でものを考え判断をしなくなります。
 

これはK会にそのまま当てはまります。ORが何か判断すると、信者の全員がそれに右になれで、各自は思考停止します。ORの判断が分からない時は、役職の上位の人間の判断に従います。まさに身分制であり、個性と判断の責任が消えてゆきます。

努力の価値を強調する縁起の思想は尊重すべきですが、それに偏して人を見るORの差別観は要注意です。まず自分の個性の価値を信じ、役割が異なっても、それを上下観で見るのではなく、個性に根差したものとして敬意をもって認めていく気持ちが、大切だと思います。そして個性ある人間として、オリジナルな思想をもつことを恐れないで生きていきたいと思います。

  常に人を自分より上か下かを考え、上だと判断したらその人の意見に合わせるという習慣を卒業して、誰でも役割を異にした尊い個性として尊重し、謙虚にしかし貪欲に学び合いたいと思います。

<希望のブログのご案内>

心理学専用に「希望のブログ」があります。アクセスはこちらから。
 http://tanemura2013.blogspot.jp/

<連絡先>種村修
      電話 090-8051-8198
     メールアドレス:tanemura1956@gmail.com

 

2 件のコメント:

  1. KK信者たちが例外なく、好き嫌いが激しいことが、この種村さんの記事で明確化しました。

    受験競争主義で裁き、KK優越主義で裁き、末端信者たちは、それが好き嫌いの「本能」に変化しています。

    「本能」に基づき、他を裁きます。

    ですから、必ず、何処の支部であっても、お局様グループが存在し、

    そのお局様グループの「好き」に分類されねば、居場所のない信者ばかりなのです。

    この「本能の裁き」が結局、KKの発展を阻害する最大の原因ではないでしょうか?

    お局様の度量の限界が即ち、支部の限界なのです。

    仲間同士で競い合い、喧嘩が絶えないKKの思想は、絶対、発展しない思想であり、

    必ず短期間で滅び去る、ブラック企業の発想です。

    返信削除
  2. 性欲による暴走、

    勝ち負けに拘り、弟子たちを競わせ、数字を追い駆け

    金、名誉など、この世的な基準に溺れてゆく・・・

    結局、OR自身がレプタリアンそのものだったのでしょうね。

    多数の愛人を侍らし、多額の金品を与え、その陰で、

    経営不振の教団の安月給で酷使される平職員たち。

    将又、教祖やそのお気に入りたちは、毎日スーツを着替え、

    贅沢三昧の日々。

    まるで北朝鮮の喜び組です。

    レプタリアンの行動パターンが学べる

    貴重な機会かもしれません。

    返信削除