2013年9月7日土曜日

依存性人格障害の視点から⑤・・・判断


教えを判断基準にする功罪



依存させる仕組み

 私はK会には、信者を依存させていく巧妙な仕組みがあると思います。その一つが、「法に照らして判断する」という言葉です。信者であれば、これは当然だと思うと思います。私もそう思ってきました。

しかし、もしその法(つまり教祖の言葉)と自分の良心の判断がずれた場合には、どちらを拠りどころにするのかという問題を問いかけられたら、どうされますか。教祖が言うことなら、自分の良心の声を無視しても従うのでしょうか。そうなると、オーム真理教の教祖に従った信者と、どこが違うのでしょうか。
 

教団の変化

K会では、もともとは自分の正しき心の探究をして、そして得られた正しさに照らして判断しなさいと説かれてきました。教えに照らして反省し、心を清らかにして正しい心を探求し、その正しい心に照らしての判断をするのです。私はこれは、非常に難しいけれども、信者の自立を促す教えだと思いました。

それが大幅に変わったのは、やはり方便の時代が終わり仏教路線に入ってからでしょうか。やがて正見とは正信であり、信仰に基づく見方をしない限り正しく見えないと教えるようになりました。そうすると、自分の良心の判断ではなく、教祖の意見に従うことだけが求められるようになります。

 
良心に基づく判断

 私はどの宗教を信じるにしても、教えと自分の良心が一致する点で判断するほうがいいのではないかと思います。

 私は、誰であれ、人の心には神仏に通じている聖なる部分があると思います。それが良心だと思います。自分の人生における決断の責任は自分以外にとってくれる人はいませんので、どんな立派な教えであっても、自分の良心に合致しない場合には、少なくとも判断を保留にすべきではないかと思うのです。明らかに良心に反するならば、その教えに従うべきではないのではないでしょうか。

  宗教の教えというのは、正しい宗教であっても、状況や場面が変われば正反対の教えが説かれたりします。結局どの教えに基づいて選択するのが正しいのかは、最後は自分の良心に照らして決めるしかないと思うのです。
 
「総裁がこういったから」という言い方を、職員は金科玉条にしてきます。これは大義名分をたてることで、信者を従わせやすくなるからです。「経典のここにこう書いてあるから」と言うかもしれません。そういうことで、職員は自分の責任が免除される気がするのです。

ですが、K会の教祖の判断そのものが間違うことが多いのは、選挙結果を見たら明らかです。またある経典に「家庭ユートピアができないと信仰者としては一人前の修行者ではない」と書かれていましたが、家庭ユートピアづくりは教祖も失敗しています。つまり一人前の修行者ではなかったわけです。

しかし、それを認めるわけにはいかないので、結婚相手を徹底的に悪者にしました。そして一夫多妻まで匂わしているようです。こうした教組の言動は、自分の良心に照らして正しいと思えますでしょうか。

もしこの教祖の言動を根拠に、それに従って行動すれば、おそらく世のひんしゅくをかうのではないでしょうか。

 
 つまり、宗教の教えで説かれても、それと自分の良心と合致するかどうかを考えて、合致しない場合は行動を控えるべきだと思います。盲目的な依存は、そうすることで予防できると思うのですが、いかがでしょうか。


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