2013年8月10日土曜日

幸福の科学の植福を考える⑲・・・三輪清浄


汚れた布施とは何か

 


3つの汚れ

 K会(幸福の科学)は布施の正当性の根拠として三輪清浄を強調してきました。三輪清浄とは仏教で説かれた布施の理念です。三輪とは施者、施物、受者であり、この三つが清浄でなければならないという教えです。清浄というのは執着の穢れがないことです。

 三輪清浄の教えに従えば、次のような布施は汚れがあり、功徳がない、つまり悟りの因とならないとされます。

 

 施者が見返りを求めて布施を行い、教団から重要視される立場や、名誉や名声、特別待遇を求める布施は汚れています。布施は与える行為ですから、見返りを求めるのは取引となり、貪欲を断つ修業としての価値はなくなります。自分の名前で支部精舎が立ったという名誉を求めたり、多額の布施をすることで教団内で重要な立場や尊敬や注目が欲しかったり、布施の見返りに仕事上での取引を有利にしたかったりすると、施者に穢れがあるとなります。

 

 施物は金銭や奉仕や土地や物など教団に捧げるものです。通常はお金です。そのお金が不当な手段によって稼いだものであれば、施物に汚れがあるとされます。例えば盗んだお金、詐欺的商法によって得たお金は、そのお金に執着の念や恨みがこびりついていますので、汚れています。

 

 受者はK会では教祖一人です。職員は受者ではなく、教祖から給料の支給を受ける立場です。受者が自分の私欲や行き過ぎた事業欲のために金集めをしたいという思いなら、受者は汚れています。

 特に仏教で厳しく禁じられたのは、受者が悟りを偽って布施を受け取る行為です。仏陀でないものが仏陀と偽って布施を受ける。阿羅漢でないものが阿羅漢の悟りを得たと偽って布施を受ける行為は、宗教的な詐欺であり、無間地獄に堕ちるとされてきました。過去世を偽って集めた布施も汚れています。

 

出家者と勧進の問題

 K会は厳密には受者は教祖一人とされていますが、職員は教祖の命令を受けて布施を集めるので、信者から見たら受者です。仏教では出家者は全部受者になります。この出家者が、自分の営業成績をあげたいためにお金を集める。目標に及ばず左遷されるのが怖くて布施を集める。教団から賞賛や名誉を得たくて布施を集めるならば、それは汚れています。我欲を満たすための行為なので、悟りの因とはならず、執着を深めるにすぎないからです。

 

 仏教は布施は貪欲を制し執着を断って、相手に与える行為だからこそ、悟りや幸福の因となると教えます。霊的な功徳を求めてする布施であっても、それが欲しいがために布施をするならば「無功徳」であるとするのが仏教の立場です。

 だから、出家者は在家の人が無執着の与える心を起こして布施をされるように導くのが修業であり、在家の人に功徳を積んでもらう行為とされたのです。これが勧進の意味です。

 

 勧進する人の心と、布施する人の心は合わせ鏡です。勧進する人の心が、自分の我欲から目標数字達成のためや自分の名誉心や出世欲からお金を集めようとしたなら、差し出すひとはそこに何か嫌なものを感じます。強制感や出させられたという不快感を感じさせることもあれば、施者に名誉や賞賛が欲しいという気持ちを引き出します。こうなると迷いの増幅をしていることになります。そうした布施には功徳がありません。まさに無功徳です。ですから、布施を勧める(勧進)側は、常に自分の心に執着や我欲はないか、在家の方に悟りの因となるような布施の心を起こさせ引き出せているかを自戒しなければなりません。

 にもかかわらず、K会でそういう指導を私は教祖からも誰からも受けたことがありません。私自身は仏教の精神に基づいて、そういうことを強調したことがありますが、組織的に勧進する職員の精神性を高める指導は一切されなかったと思います。ただ、目標達成した支部長は賞賛され、そうでないものは非難される。それが教団のカルチャーでした。

1 件のコメント:

  1. 「本地垂じゃく説」が、本当に大事
    これは、インドの仏様が、日本のアマテラス様として現れたというような考え方ですが、K会においては、宗教戦争を解決するには、K会の教えが世界を一つにまとめていくということですが、それでは結局、ピラミッド型になってしまう。ネットワーク型になるのが、好ましい。
    宗教戦争をなくすには世界の各地に、不公平があってはならない。聖なるものに不公平が、あってはならない。
    聖なるのもが、あるとすれば、重力と同じようなもので、不公平が、あってはならない。どのような宗教にも、聖なる断片はあり、どこの神さまも高次の意識が、おりてきたものだ。世界中の宗教に、聖なる存在が、おりてきたと、考えると、皆がなかよくなれると思うのです。
    「対立でなく、融合を生み出す日本」
    K会は、大本教や、生長の家が、前身団体のように、言いますが、大本教においては、「万教同根」といわれていて、すべては、同じところから、出てきていると、いいます。これは、垂迹説と同じだと思います。
    島国である日本の使命、(文化や、宗教を少しずつ、国に入れることが出来た。)漢字にしても、仏教にしても地つずきの朝鮮なんかでは、一度に、ドーと、入ってきて、以前からある文化などは、征服されてしまうわけです。日本の場合は、間に海がありますから、一度に入ってこない。仏教も、すこしずつ、遣唐使船なんかではいってくる。時間をかけて、少しずつ消化していく中で、垂迹説で説明して、この考え方が、広まることによって、平安朝には、宗教を原因とした争いは、完全になくなるわけです。
     ドイツなどのゲルマン民族も。キリスト教が、入ってくると以前のゲルマンの信仰は、消えていくわけです。森を、大切に、していましたが、キリスト教は、切ってみせるわけです「ゲルマンの聖なる樹(アミニズム…実は宇宙に、つながる)」キリスト教の教会には、木がないわけです。ゲルマンの信仰の聖なる木を、斬って、キリスト教の教会は、立てられるのです。
    朝鮮などは、仏教がはいってきて、それ一辺倒に、なってしまって、それ以前のおしえは、なんだったのか、わからなくなってしまっているわけです。

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