2013年7月3日水曜日

依存心に向き合う①


出家時代の依存心の分析
 

私はこれまでK会(幸福の科学)の洗脳解除、後遺症の克服のためにブログを書いてきました。その過程で私自身のなかに教祖やK会への依存心がまだ存在していることに気づかされました。この「依存心」と向き合うことは、私の洗脳解除と後遺症の克服には不可欠だと思います。そこで依存心の問題について、自分の心をまな板の上に載せながら検討していきたいと思います。

まず教団職員だった時期の自分を振り返ると、次のような依存の状態を発見しました。

① 教祖に認められたい、重要視されたい、愛されたい、高く評価されたいという依存心理がありました。その心理は自分の存在価値のよりどころを教祖の評価に置くという思考に由来していました。これは子供のころに親に認められ、評価され、愛されることで、自分の価値を自己確認する心理と基本的には同じものです。恋愛においても、恋愛対象に対してよく似た感情が働いていたと思います。この親への心理的な依存、恋愛相手への心理的な依存、教祖への心理的な依存には、共通するものがあると思います。

② 教祖への依存で、特にあの世での自分の存在まで教祖の評価に依存していると考えていました。これが信仰特有の問題だと思います。

③ この教祖についていくことで自分の人生が開けていくという期待がありました。その奥には自分自身の力で運命を切り開いていくことへの自信のなさがあったと思います。

④ 所属している教団が自分のコミュニティーの基盤でしたので、そこでの評価や自己重要感や人間関係が、私の社会的な存立基盤でした。ですからそれを離れることが非常に難しく、教団の人間関係への依存がありました。

⑤ 経済生活の基盤は教団にありました。経済的には完全に教団に依存していました。

⑥ 総じて教団職員時代には、自分の存在価値・自己重要感、将来設計、社会的な評価、人間関係、経済のすべての面で、教祖と教団に依存していたと思います。

 「依存と自立」という視点から考えると、人は「依存ゼロ、自立100%」という状況はないと思います。やはり依他起生という仏教の言葉にあるように、人はあらゆる存在とつながっており、自分は他に依存しながら他を支えてもいる。つまりお互いに支え合って生きているという関係が真実の姿だと思います。これは仏教の縁起の考え方ですが、まさにそれがありのままの姿だと思います。

ですから依存そのものが悪いとは言えません。依存には「良い依存」と「悪い依存」があると考えなければならないと思います。

「悪い依存」とは、自分の心の成長や人間としての独立自尊(自立)の気持ちを阻害する依存であると思います。相手がいなければ自分は生きていけないと思って執着し、そこにしがみつく心理は、相手にもお荷物ですし、自分の自由と尊厳を損ないます。相手から見捨てられたりそこから切り離されたら生きていけないという恐怖心があると、相手にしがみつき、執着になると思います。これが「悪い依存」です。

それに対して「良い依存」とは、お互いに相手を必要としている存在だと知り、必要な時は頼りながら自分を伸ばしていき、生かされていることに感謝していくことです。また自分も誰かの依存を受け入れ、その人が生きていき成長していけるように支援しようとすることです。つながりを大切にしながら、そのつながりをお互いの幸福感と価値を増大させる方向へと向かうのは、「良い依存」であると思います。

 すると依存に関する問題の焦点は、私の独立自尊の気持ちを損なわせていた依存、相手がいなければ生きていけないと思ってしがみついていた依存、自分の正しい心の成長を阻害していた依存を検討し、それを取り除くことにあると思います。

 すると私の場合は次の点に問題の焦点を絞りこめると思います。

 ① 教祖を霊的な価値の判定者にしたこと。目に見えない根源の存在が価値の判定者であるという信仰は正しいと思います。しかし、その根源の存在と教祖を同一視したのは、間違いだと思います。なぜなら、教祖もまたその霊的な価値を判定される存在にすぎないからです。肉体を持った教祖と、目に見えない根源の存在を同一視させるカラクリがエル・カンターレ信仰です。だからこのエル・カンターレ信仰は有害であり、間違っていると思います。ここが間違いの原点です。私はこの世での教祖からの評価が、あの世での自分の霊格の高さを決めると思っていました。まさに、自分の価値を教祖の評価に完全に依存している自分がありました。

② 教祖に評価されることによって、自分の存在価値に自信が持てるという心理が、悪しき依存を生んだと思います。これは自分の価値を他者(ここでは教祖)の評価に依存した状態です。その原因は、自分自身に本当の意味での自信が持てなかったことにあります。自分の存在価値に自信がないので、教祖の評価に依存し、そこからの評価を確認してはじめて自分の存在価値を感じて安心していたのです。

③ 教祖に愛されたいという思いは依存を生みました。女性が愛する男性の寵愛を得たいと願い、ライバルを嫉妬して蹴落としたいと思う心理と同種類の心理が働いていると思います。やはり長年信仰の対象とした人は、恋愛の対象に近いものとなっています。教祖から愛されているという思い、気に入られているという思いは、心理的な満足感と教祖とのつながりの感覚を生みます。それが得られないと、怒りや不満になることもあります。「これだけ尽くしているのに、どうしてわかってくれないのか」という不満とやるせなさです。教団では誰もが教祖に愛されたいのです。愛されたくて、仕事の成果を競ったり、布施の額を競ったりします。自分より教祖に愛されているものに対する嫉妬も生まれます。こういう心理は在家になっても変わりませんでした。教祖は、この面で部下や会員を競わせるような仕組みを作り、実際にそう仕向けていたと思います。

④ 自己の重要感やプライドを、教祖の評価によって満たしてきました。教祖が認定する論文の順位は悟りの順位とされ、それが高いとライバル的な職員からの嫉妬と一般的な職員と会員からの高い評価が得られました。過去世認定は教団内での暗黙のステータスを与えてくれました。講師資格と役職は、職員内での相互判定、会員からの尊敬や評価につながりました。会員数が増えるにつれて、これまで考えられなかったような尊敬(錯覚も相当あったと思います)が与えられました。教祖は、この面でも部下や会員を競わせるような仕組みを作り、実際にそう仕向けていたと思います。

⑤ 教団内での説法がうまくいくと、聴衆からの尊敬、あこがれなどの想いが与えられます。ここには一種のファン心理が押し寄せてきます。こういう感覚は他では得られないもので、私の中毒になっていたと思います。そしてもっと賞賛や尊敬がほしいという餓鬼の心が生まれていたと思います。これはいい講義や研修をしようとする努力の原動力になるのですが、周りの評価や尊敬を集めることが執着になっていました。会員の賞賛や尊敬のエネルギーは、これを得るようになると、これなしには生きてゆけないような錯覚を感じました。中毒になるのです。こういう感覚は、私の心の成長と人間としての人格の成熟を妨げていたと思います。

⑥ 教団内でもできる仕事と苦手な仕事がありますが、いろいろと配置転換が激しくて、この世的にも通用する能力は磨かれません。特殊な教団内でしか通用しない力しかありません。それはうすうす自分でもわかります。外の世界で生きていく自信などありませんでした。そうすると教団にしがみつくしかありませんでした。経済的なものも、もちろんそれに伴うものですので、教団に完全に依存した状態でした。

  以上を検討してみると、やはり相当病んだ精神状態にあったと思います。依存性人格障害という言葉がありますが、私もそれに陥ってた可能性が高いと思います。また職員や会員を依存させていく仕組みを、教祖は意識的に作っていたと思います。これも検証していくべき課題です。

  ここまで私の職員時代(出家時代)について依存の分析をしてきました。しかし、悪い依存心はK会の職員になって初めて生じたものではなく、それ以前から存在していたと思います。また退職(還俗)してなくなったわけでもなく、相当部分は持続したと思います。さらに、脱会した後はどうかというと、矢張り後遺症が残っていると思います。そうした問題は、これから徐々に分析をしていきたいと思います。



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