2013年7月23日火曜日

依存心と向き合う⑭・・・権威への依存


そこから何を学ぶべきか
 


生長の家の信仰の光と影

 生長の家の思想は、現象と実相を峻別し、現象は心の法則により展開する仮の世界であり実在ではなく、神の心の展開である実相こそが実在であると捉えます。人間は実相において神そのものであり、本来無原罪の神の子です。実相を心の目でしっかりと観じ瞑想する(神観)ことで、実相が正しく現象界にも顕われます。現象が不幸であれば、心の持ち方に原因があるので、心の法則に照らして悔い改め思いの持ち方を修正することができれば、不幸な現象は消えます。最大の懺悔は、迷いは本来ないと知り実相を心で見つめることなのです。
 
 人間神の子、実相は円満完全の悟りを縦の真理とすると、三界は唯心の所現、心の法則を駆使すれば百事如意、希望は実現するという真理が横の真理です。この縦と横の真理に基づいて生きていくことで、光輝く人生が展開します。以上が生長の家の基本教義、唯神実相哲学の概要です。

 仏教的に言えば、現象は縁起の世界ですので、これがあればあればあり、これが滅すればあれが滅するという、原因結果の連鎖でできている世界です。従って不滅の実在はないことになるので、その意味で「物質はない」「肉体はない」「迷いの世界はない」となります。この「ない」は本来ない、つまり仮に現れた縁起の世界であることを言っており、仏教であればそれを「空(くう)」という代わりに、「本来ない」「ない」と断定することで、心のとらわれを解き放つ効果を重視した言葉なのです。

 しかしながら、実相のみ実在で、現象は「本来ない」となると、現実をありのままに見て分析し、現実に合理的に対応する努力をしようという気持ちが起きてこなくなりがちです。そして、希望を心に描いて、明るい言葉を出せば実現するということで、現実の詰めが甘くなり、何とかなるだろうという他力的な依存心の強い信仰に陥った側面があります。

 また心の法則で、間違った思いを発見して懺悔し修正するならば、悪しき現象が消えて、本来の神の子の姿が現れるというのは、反省の教えやキリスト教の懺悔の思想につながる要素を持っています。

 しかし生長の家の思想が光明思想と言われるように、「本来悪なし」「光のみ実在」を強調するために、悪を凝視する力が弱くなり、その表面を覆い隠してコーティングしてしまう傾向が生じやすいのは事実です。

 私自身、心の中に抑圧されたネガティブな思いが未処理なままで蓄積していたのと、教団内での仕事の展望が見えなかったために、非常に根暗な心になっていたと思います。
 

生命の実相を自ら掴みえなかった

 私が生長の家の本部で、自分自身の生命の実相を命がけで探求したかと言えば、答えはノーでした。一番探究したのは高校3年生の時で、その時に一番熱心に『生命の実相』をよみ、奇跡も体験しました。

 それ以降は、政治思想の探究に目がいき、生命の実相を自分自身で探求するという努力が圧倒的に不足していました。これはほかの仲間も、大体似た傾向がありました。あるいは仕事の上で教えを学び説いても、求道者としてその人がいるだけで襟を正される人は、ほとんどいませんでした。

 私が知っているかたでは、関西方面のある教化部にシベリア抑留を体験された福島先生と言う方がいました。非常に透明感がある方で求道の気迫に満ちていらっしゃいました。伝道者真理の実践者として尊敬したのは、四国に真鍋さんという男性の方でした。私が取材で知った方ですが、この方は奇跡の力をもち在家ながら多くの人を救い教化部を建設されました。学生時代では大学を左翼から守り抜いた安東先生と言う方が、筋金入りの信仰と志の方で尊敬してました。これらの方々は自分い厳しく使命に命を懸けていらっしゃいました。

 でも、ほとんどの職員はサラリーマンでした。もしくは政治活動への献身はしても、視線が外向きになりすぎて、自分の心の実相を求める人は数少なかったのです。私も自分の生命の実相を命がけでは求めていなくて、数多くの本を読んだり教団の本職員でいることや、政治活動に協力することで胡坐をかいていたと思います。

 教祖の谷口雅春先生の教えは正しいと信じて、教祖の正しさに依存し、自分自身で真理を体得し、自分が実相に参入する努力を圧倒的に怠っていたと思います。「実相」は死んだ言葉ではないはずです。それは「活ける生命」として「実相」の側から私に働きかけ、私の宗教体験を通して、そして私の個性を通して実相が顕現することを要請しているはず。しかし、それをつかみ取る努力が圧倒的に不足していました。実相と心の状態が乖離しているのに、その矛盾に真剣に向き合っていなかったと思います。

 私は在家の信者の方々を数多く取材するかなで反省しました。そして熱心な在家信者の姿や神秘体験に触れることで信仰の生きた姿を知り、現実に神の働きかけを知り、私も真剣に祈るようになりました。学生部から活動してきたという高慢な気持ちが、少しずつ取れていき、謙虚に道を求めるようになりました。それとともに、私は生長の家の教えのみでは、さまざまな人を救いきれないのではないかという悩みを感じはじめました。そこで、30歳に近づくころには、さまざまな宗教書を学ぶようになっていきました。そして内省的になっていったのです。

 ここで感じた依存は、教団職員であることや活動していることに満足して、そこに所属することに依存していて、自分自身の心で実相を掴んで、それで人を救おうとしていないということだと思います。「我一人立つ」という自立の気概はそこからは出てきません。

 

知識と行そして権威への依存

 生長の家には谷口雅春先生の書を繰り返し読むことで、潜在意識から変化して悟りを開き、運命が変わるという思想があります。私は活字人間でした。人と話をし相手を受容、心で学ぶのではなく、活字を通して学びたいという傾向が強くありました。それもあって、本だけは比較的よく読みました。書いてあることの意味を、実践を通して知ろうとするより、繰り返し学べば自分が変われるという気持ちです。読書という行への依存とでもいうべきでしょうか。

 知識への依存では、依存している知識は特定の教団が肯定する知識ですので、幅広く学んで自分自身で考えつかみ取ったものではなく、体験を通して得た知恵でもありません。その幅が非常に狭く、自説を肯定する知識しか受け入れていないために、それに反するものへの非寛容が生じます。またその知識を知っているということで、上から目線と裁き心が生まれます。これは知識の源泉である教祖の権威に依存して、自分も偉くなったように錯覚している状態です。

 教えで自分の心を照らし、教えを実践することを求めると、自分の心の中のさまざまな害虫がうごめいている姿を凝視しなければなりません。真実の姿を凝視すれば己を飾ることはできなくなり、教えの実践に真剣に取り組むはずです。それが欠けているのは、知識のみの悟りで満足してしまう傾向と、行として宗教生活(行)を習慣化することに留まり、満足する自分があるからだと思います。知に誇り行に誇る傾向があり、自分自身との格闘が不足しがちです。これは知識依存、行依存であり、形に依存して実践で自分と向き合うことを避けているように見えます。この傾向が、K会に入っても続いていたように思います。

 そうなると、自分が言葉で相手の心を変えるより、この本を読んでもらえば救われるのではないか、この行事にでてもらえば救われる、このお経を読むようになれば救われる、ご本尊を入れれば救われる、信者になれば救われる…というように限りなく、教団に依存した伝道しかできなくなります。自分が相手の心を救えるだけの実力がないからです。それは自分自身の心を本当に変えたという経験が不十分だからです。だからそれだけの感化力が出てこないのです。これは私自身の反省です。教祖や教団の「権威」に依存してしか話ができず、自分自身の言葉と行動で人を導けない状態だったと反省をしています。

 それはK会にいても同様だったのではないかと思います。

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