2013年7月2日火曜日

(投稿)元信者の告白


何故K会信者をやめたのか

 

「悟ったつもり」に嫌気がさして

 
私が、まだK会信者であった頃の話です。

 
私はそれほど熱心な信者ではありませんでしたが、

定期的には支部への訪問と、植福の実践をしていました。

講演会には必ず参加し、大黒天信者でもありました。
 

ただ、同じ支部の方々とは、どうしても馴染むことができませんでした。

それは、修行や活動に関する考え方の違いからでした。


 私はどちらかといえば、植福や祈願よりも、学習や心の修行の方に重視していました。

初期の活動スタイルを踏襲するような形で、「正しき心の探究」や「反省行」を自分なりに模索し、
心の修行を日々の活動スタイルとしていました。

「苦集滅道」を基本理念として、職場や日常生活で、真理から外れた思いや行動をしたときには、すぐさまそれを反省し、心の修正を行ってきました。

 
K会では、「悟りを偽ることは、大きな罪」であることを当時言われていたので、修行を通じて自分の中に腑に落ちたこと以外は、真理について語ることを断じて拒絶してきました。

悟ったつもりになって、真理を語ることは、大きな過ちであると思っていたからです。

 
ですから、支部の中で、悟ったつもりになって真理を語る信者の方々が大嫌いでした。

ただ、本で学習した内容を知っているだけで、自分達が悟ったような錯覚に陥り、

わかったつもりの「真理」を語っている人達と、次第に距離を置くようになってきました。

 
K会での、検定試験でも、一時は上級試験に合格したことがありますが、

途中で馬鹿馬鹿しくなって、ある時期を境にやめてしまいました。

 
K会では、宗教的な「悟り」を求めることはほぼ不可能です。

「愛・知・反省・発展」の知を、真理の学習度合いによって、悟りの高さを測っているようなところがありますが、それは、真理の学習をして、それを「知識として記憶している」ということで、悟ったような感覚に陥ってしまうという弊害を生み出してしまいます。

知識として学ぶことは結構なことですが、それを頭で理解しているのと、心で掴んでいるのとでは、全く別次元の問題です。

真理で学んだ知識を、活動という「愛の実践」によって智慧に変えていくということを、以前はよく言われていましたが、そのようなことは名目上のことであったでしょう。いつしか「布施」だけが全面に強調される形となってしまいました。

そして、植福のみを追求するようになった結果、宗教的「悟り」からは全く縁遠い団体となってしまいました。植福の額で霊格が決まるというのは実におかしな話です。「正しい心の探究」による修行を重視する自分にとって、それはかなり異常に見えました。

よって、初期の頃のスタイルは、いつしか廃れてしまい、次第に中身のない活動形態へと姿を変えていきました。

そして、いつしか「集金団体」へと変貌を遂げてしまいました。

 
このように常軌を逸した宗教団体から離れるのは、自分としては自然な流れでした。


 失敗を受け入れ「反面教師」として学びたい

 
K会を離れてしばらくたちますが、

K会は自分にとって何だったのだろうか、と考えることがあります。

K会に対する恨みというのは、全くありませんが、

今は、悟りを目指す修行者にとっての「反面教師」としての存在であったと感じています。

 
宗教的な「悟り」というのは本当は何であったのか。

自分にとって、K会の中で求めてきた「悟り」というのは何であったのか。

出会ってきた信者から何を学んだか。K会での活動から何を学んだか。

何が間違っていて、それをどのように自らの向上に結びつけていくべきか。

こうしたことを追求していくと、次第に「悟り」への方向性が見えてきます。


K会のことを恨んでも仕方ありません。

財政的にも大きな被害を受けた方もいると思います。

私も、結構な私財を投げ打ってきました。

 
しかし、この世に生を受けている以上、この世での「修行」は続いています。

K会に出会ったことは、大きな失敗でありましたが、

そこから学び、今後に生かす道もあるはずです。

 
この失敗から学び、この失敗を受け入れ、

新たな道を踏み出そうと決意したときに、

神へと向かう新たな道が開かれてくることを、私は強く信じています。

 

 

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