2013年7月16日火曜日

依存心に向き合う⑨・・・依存心との対決へ


自分を見つめる


 依存心を見つめることの苦痛

 依存対象が幻となって消えたとしても、「依存心」そのものは同時に消えるわけではありません。私は残った自分の「依存心」について向き合わなければ、K会に依存してきた自分自身の本当の問題を解決することができません。

 ここで問題にしている「依存心」とは、誰かにもしくは何かに頼らなければ、自分一人ではやっていけないのではないかと不安を感じることから生まれる心理状態です。あるいは人に頼ることで自分が楽をしたいという奪う心も依存心の奥にあると思います。ここで問題にしている「依存心」は、「悪い依存心」です。私自身の自立する心をむしばみ、周囲のエネルギーを奪うだけの「悪い依存心」とは、直視して向き合わねばなりません。こうした依存心を認めず、潜在意識に抑圧していると、知らず知らずの間に悪しき依存に陥るからです。
 

 この原稿を書くこと自体が、私は自分自身の依存心に向き合うことでした。それはとても大きな心理的抵抗を伴いました。「そんな自分に向き合いたくない」「依存心があると認めたくない」という気持ちが、内心の抵抗となり、この原稿を書くことを渋らせました。

「自分がこの宗教を信仰してきたのは、OR氏に洗脳されたからであり、自分は被害者なのだ。」

K会を批判していることで、私はすでに依存を脱却しているのだ。」

「私はただ純粋にまじめに一生懸命に信仰してきた。」

「悪いのは全部教祖や教団なのだ。私はそれに気が付いて、人々を救おうとしているのだ。」

 そうした言い訳が心をよぎります。でも事実は違うことを知っています。

K会に入ったのは自分の意思であり、OR氏を仏陀と信じたのは、自分自身の判断でした。私は自分の意思、判断、直感で入りました。

・私は単なる教団の被害者ではありません。受益者でもありました。以前の職場に失望していた私は、新しい理想を提供してくれ、私の能力を必要としてくれる教団に入ることで、水を得た魚のようになれた時期がありました。

・私はこの教団の発展のために尽くしてきました。多くの人に教祖が説くことは真実であり、それを信じるように説法してきました。お布施が集まるように説法をしてきました。要するに加害者でした。

・教祖が社会に対して嘘をついたり、矛盾する行為をしていても、それを正当化する教祖の説明を丸呑みすることで、信仰に疑問を持たないようにしてきました。教祖の説明がない部分は、自分で説明を考えだし、信者の人にもそれを説いて不信を持たないようにさせてきました。

 例えば1千万人の会員数の公称数字の発表や、講談社への抗議活動が会員の自発的な動きだったことなどの言い分が嘘であることは知っていました。でも「深いお考えがある」「これは一種の兵法である」などと、OR氏の発言を無理にでも正当化し、疑問を持たないようにしていました。

・私はあまりにもK会の中で生きてきてしまったので、そこを離れては何ら社会的信用がないのを知っています。何らかの信用を築けたように見えた時でも、信者の仲間がいてくれて支えてくれたおかげでした。自分の実力や社会的信用については微々たるもの、もしくはマイナスでしかなく、K会の信用が失われるにつれて、そこに所属していたこと自体が十字架になると思っています。

 
 そうしたことを事実は事実として受け入れて、そのうえで私は自分の依存心を見つめなおしたいと思います。


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