2013年7月10日水曜日

幸福の科学の植福について⑫・・・ビッグバン貸付


洗脳集金システム⑥


ビッグバン貸付制度の裏側

K会(幸福の科学)は最初は宗教ではなかったため、宗教法人を取得してからも布施(植福)を呼びかけることには躊躇がありました。また西荻窪でビルの一室を事務所に借りている間は、多額の布施を必要としませんでした。

しかし、大伝道期を目前に迎えた1989年末、紀尾井町ビルのフロアを借りるようになってからは、そういうわけにはいかなくなりました。さらに、1991年には大伝道が行き詰まりから財政破たんに見舞われました。マスコミの批判報道により伝道や書籍売上げがストップしたことで、宣伝広告への巨大投資が回収できなくなり、職員のリストラに追い込まれ、存立の危機を迎えました。

この財政危機の打開策としてスタートしたのがビッグバン貸付の制度でした。それは会員から100万円単位で教団にお金を貸すというものでした。当時の謳い文句は、次のようなものでした。

1)「ご自宅にあるタンス預金を仏陀(OR氏)に預けませんか。」

2)「バブルがはじけた今、銀行はいつ破たんするかわからないから、仏陀(OR氏)に預けたほうが安心だ。」

3)「お金が必要になった時には、いつでも返す。」

4)「満期が来たら、利息をつけて返す。」

勧誘の成果は大きく上がり、1年後の1992年の秋には資産が150億円にまで膨れ上がりました。

ただし利息の支払いについては、「仏陀から利息をもらっていいと思うのか」「与える愛を知っているなら、その利息分を仏陀にお布施するべきだ」と主張し、利息分を布施へと転換させていきました。つまり「利息の反故」を宗教的な論理で正当化したのです。

また借入期間も延長させていきましたが、最後にはこれを布施へと転換させました。この頃、OR氏は信仰の大切さと「植福(布施)の功徳」を盛んに講演会で説法し、書籍でも植福の大切さを訴えていましたので、「布施することが、会員にとっての与える愛の実践だ」「布施に対価を求めてはいけない」としつつ、布施には功徳があり「天の蔵に徳が積める」「あの世へ行けば10倍返しになる」という誘導をしました。こうした洗脳が精力的になされた結果、貸付金は次々と布施に切り替えられていきました。

当時の秘書部長の証言によれば「1991年の資産150億円(ほとんどが貸付金)が、翌年の初めには資産200億円で、150億円が貸付金ではない純資産になっていた」といいます。これは宗教的説得という洗脳を通じて、貸付金を巻き上げたと言われても仕方がない行為でした。

 
会員の証言

ある元信者の方は、その時期の体験を次のように証言しています。

「私は、当時、何ごとにも素直な純粋な信仰心を持って臨みたいという気持ちが強くありましたので、元証券会社に勤務経験があるW支部長の話を信じてしまいました。W支部長は、私たちに対し『生命保険はダメになるから、保険を解約して、その分BB(注:ビッグバン貸付の略称)として幸福の科学に預け、利子の分をお布施したほうがよいです』と熱心に言われ、私はお役に立ちたい気持ちだったので、主人と大喧嘩をし、離婚の話も出てきても、仏のお役に立つ良いことをしているのだからと納得し、主人のいうことを聞かないでBBをしてしまいました。

 しかし、ある時BB(貸付)と言っておきながら、『それをお布施に回しませんか』ということを聞かされました。その時に、<内緒でBBをお布施に回すと、主人から『お金はどうした?』と聞かれたとき、お金が無くなっている状況を見て絶対に怒られる>と思いましたが、お役をしている手前断り切れなく、<もう離婚されてもどうなっても仕方がない>と破れかぶれの気持ちになって、結局主人に内緒で布施に回しました。

 その後は、貸付から布施に回したことが主人に知れたらどうしようと、常に心の中はビクビク状態で恐怖心で膨れていました。決して心の中は幸福ではありませんでした。私は100万円3口の貸付をし、結局、それらは全部お布施にまわされて1円も返ってきませんでした。」

 この方は、書類上はいったん返済した形式をとり、直ちにそのお金を布施することで、実質的には貸付の布施への転換をされたようです。「お布施の目標額を達するために、支部長に頼まれて、そうしただけです」と証言されています。

 
 この貸付の布施への転換は非常に巧妙で、しかも汚い集金の手口です。信仰心が大切だ、布施は大切だと言われ続けていた当時、会員さんは布施に転換するしかなかったと思います。

しかしこれは宗教的説得を駆使した騙しのテクニックです。これがK会の集金の原点にあることを、私たちが銘記しておかなければならないと思います。

当時、教祖のOR氏は当時秘書部長だったAさんに対して「会員は生かさず殺さず」と嬉しそうに語ったと言います。徳川時代の農民政策では、「百姓は生かさず殺さず」で収穫の半分程度を年貢として差し出させていましたが、まさか教祖がそんなことを考えていたなどと、会員は想像だにしなかったと思います。

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