2013年7月30日火曜日

(投稿)執着からの脱却


大いな叡智を感じ取るとき
 

 
人は、無い物を得ようと苦しみ、得たら得たで、それを失うまいと苦しむ。

人から多くの愛情を得ようと苦しみ、得るものの少なさに、また苦しむ。

価値なるものを、自分以外のものに見出した結果である。

 
宗教では、それらの執着から離れることを教える。

または、自分の中に価値を見出すことを教える。

 
老子は、そのような無価値なものに心を捉われず、大いなる道(タオ)に身をゆだねることを教える。

 
しかし、それをわかっていても、人は相変わらず、自分以外のものに価値を見出し、苦しみ続ける。

 
頭ではわかっていても、心で捕らえていないからだ。

執着の愚かさを理解しているようで、本当はわかっていない。
 

執着の苦しみから離れようとしたら、「大いなる叡智」を自らの心で感じ取る必要がある。

自らの心を見つめていったときに、そこに大いなる叡智とつながっているものがある。

それをつかんだものだけが、自らの本当の価値を「心」で知ったものだけが、

執着の愚かさを知り、とらわれの苦しみから抜け出すことができるのだ。

 
頭で理解せずに、心でつかむこと。

 
「悟り」を求めようとしても、「悟り」は逃げていく。

形あるものではないから、捕まえることはできない。

「悟り」を知るとは、「神の偉大なる叡智」を知るということ。

それは求めてつかまえるものではなく、私たちが本来心の奥に持っているもの。

それに気づくだけのこと。

「難しい」ものほど、「簡単」に見える。

しかして「簡単」なものほど、「難しい」。

心を落ち着かせて、静かに心の中をのぞいてみれば、

そこには必ず、「大いなる叡智」の輪郭の一部が見えてくる。

そう。「悟り」とは、追いかけ求めるものではなく、気づき、受け入れること。

そうすれば、一人一人がその人自身の「悟り」を得ることができる。
 
そのような気がする。

 

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