2013年6月18日火曜日

幸福の科学の植福を考える③・・・純粋な布施

布施の喜び再考③


純粋な布施に伴う精神的喜び

K会(幸福の科学)では、非常に純粋に布施を行ってきた人もいらっしゃると思います。そして純粋な布施の喜びを感じ、味わった人もいらっしゃると思います。

 私は、教団の仕組みや、お金を集める動機、さらに受者である教祖が穢れているかどうかは、布施の喜びに深く関係していると思います。教祖が悪を犯しているとき、布施はその悪事に加担した行為となり、あとで真相が分かった時には後悔せざるをえません。正しい布施の条件である三輪清浄は、施者、施物、受者の清らかさを求めますから、施者だけの清らかさでは不十分です。

しかし、教団にまだ神の光が一部なりとも差していたころには、施者が真実清らかな心で無執着の布施をした場合、その心に応じた功徳を受けていたのではないでしょうか。この場合、功徳と言うのは、目に見えない精神的な徳であり、神仏の光を受けるという意味です。

悟りは個人に付属するものですから、布施の功徳も個人に所属します。その布施の心が多くの人のお役に立ちたいという真心から出たもので、神仏への感謝の気持ちでなされる布施は、布施をした人が神仏の光を心で受け取ることがあります。その時に深い精神的な喜びを感じます。

こうした布施の場合は、施者が執着を断ち心境が変わるため、奇跡を体験することもありえます。心の深い幸福感だけでなく、現実に円滑化現象が起きることもあります。私もそういう人を何人も知っています。
 
 
喜びを伴う布施の条件

 そういう真の喜びを伴う布施には、次のような精神性が伴うと思います。
・神仏への感謝の気持ちで布施がなされること。お礼の気持ちでする布施。
 
・他の人の幸せのためにお役に立ちたいと、心から願う布施であること。

・神仏のお役に立ちたいと、心底願ってなされる布施であること。

 こうした布施は当然に無執着であり、財欲の克服も伴っています。

 
 次のような布施は、不純なものがあると思います。

・賞賛欲求や名誉欲を求める心、重要感を得たい心がある。

・布施をすることで、何らかの見返りや特別扱いを求める。

・家族を騙していることへの罪悪感を伴う。

・義務感や目標達成への責任感でする布施。

・布施しないと罪悪感をもつのでする布施。

・あの世では10倍の見返りがあると思ってする布施。これは神様との取引であり、霊的な投資もしくはあの世への蓄財の気持ちでされるので、布施とは言えません。
 
布施の功徳

 真実の布施は、深い精神的な喜びを伴います。させていただいてありがたいという感謝も伴います。

 それはその布施の精神性に対して、神仏からの光が下りてくるからです。布施をした瞬間に神仏の光をいただいています。それが布施の功徳です。だから布施をさせていただくこと自体がありがたく、感謝を伴わざるを得ないのです。

 
勧進の心

 布施を勧めることを勧進と言いますが、勧進する側には責任が生じます。信の功徳を受けていただける心境を持っていただくように支援するという責任です。

純粋に神仏のお役に立ちたいという信仰心。

純粋に人々のために役に立ちたいとい愛の気持ち。

そして何よりも神仏への深い感謝の気持ちを持っていただくこと。

これらが、勧進の要諦になります。それがなく、目標達成や自分の評価を求めての勧進は、自己満足の勧進です。宗教の本質からはずれていると思います。

本当の祝福とは何か

 勧進により布施をされたら、祝福をします。しかし、それは「おめでとうございます」ということでしょうか。それには賞賛欲求を喚起させてしまう危険性が伴うことが少なくありません。

 人が布施をしているときに、何がその方への本当の祝福になるのでしょうか。

 それは、相手が心からの布施をされて、その結果、神仏からの光を受けられていることに対して、神仏への感謝をささげることではないでしょうか。その時に、自分は布施ができないという無念さや残念な気持ち、嫉妬心は無縁です。神仏への感謝を共に捧げる祈りこそ、真の魂の祝福であると思うのです。

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