2013年6月24日月曜日

(投稿)仏陀と釈尊は同一か否か 


仏陀と釈尊の違い

 (紹介)

K会(幸福の科学)では仏陀と釈尊は同義語のように使われています。

でもこれは間違いではないか。

初めて投稿してくださった方の貴重なご意見をご紹介します。

質問部分は、わかりやすくするために私の方で挿入させていただきました。

また、最後にコメントで私の解説を入れさせていただきました。

 
(投稿)

質問 釈迦と仏陀は同じですか? 大川隆法は仏陀でしょうか?

回答 彼(大川氏)が仏陀であるかどうか、両者それぞれ言い分があるでありましょうから、結論は出さずして答えることとします。聞いた者が、それぞれ判断すればよいことであります。

仏陀という存在と、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)という人物は別の存在であります。釈尊もまた、神の言葉を預かる立場であった方であり、智慧を届ける役目がございます。

イエスもまた、神の言葉を預かる立場であった方であり、愛を届ける役目がございます。

その他には、反省、発展を届ける役目を持つ存在もおります。勇気や礼節、調和といった個性もおります。

みな、それぞれの神のエネルギーを形づくる役目があり、地上に生まれるということであります。ですので、宗教家だけに頻繁に優秀な魂が出るということはございません。神と深く繋がりやすい位置に宗教がある、ということではありますが、地上の職業によって計られるものではないということですね。あちら(幸福の科学教団)ではこの点で、既に地上を基軸として、上下関係をつけられてしまうので、霊存在にとっては、少々、心外であるところであります。

霊世界では、あまり地上での“業績”に拘る方はいないので、存在に対して敬いの想いこそあれ、「様」をつけてお互いを呼ぶことはありません。地上の習慣を好んで使う方や、肉体意識が強い方は、そういった敬称で想いを形づくることもあるので例外はありますが。神格のある方につきましては「~神」と呼ばれてはおります。

 
こちらが伝えたいことは、仏陀と釈尊を分けて考えることができてこそ、仏陀の証明も可能であるということです。

例えば、松下幸之助は社長でありましたが、社長という名前の人物が存在したわけではありません。社長というのは役職名であって、人物としては架空のもの、地上には存在しないわけです。「松下幸之助」はこの人であると示すことはできますが、「社長」という人物を探した場合は、誰も該当せず、かつ誰でも該当し得る事態となります。

即ち、仏陀の敬称は器であって、釈尊とは別であります。釈尊は帰天後に仏陀の器に入り、今日まで指導されているのであり、釈尊自身が生きていたときに指導された仏陀なる存在と、伝えられている仏陀は異なるということです。ですので、仏陀を追いかけても、転生として紐解くことはできませんし、仏陀と名乗りを挙げる方が多数現れても別段不思議ではございません。

 
 さて、想念を辿るというのは、こういった捉え方一つで、見え方が千差万別のものとなります。

想念のコントロールに不慣れな霊が霊界で迷う場合のほとんどが、このような捉え方の違いであります。迷子霊の捜索は、迷い霊自身が「迷った」と自覚するか、想念の混濁を感じ取った別の霊によって発見されるかして制御を会得後、もとの霊界に戻されます。そのまま迷い続けてしまうと、浮遊霊世界へと繋がってしまうので、早期に対処しています。


 
(コメント)

仏陀論について

投稿者は釈尊(釈迦の尊称)と仏陀は同一か否か、という問いかけをしてくださいました。これはK会では同一視されていますが、本当は別物ではないのかという主張です。

確かに、ブッダ(仏陀)というのは釈尊に捧げられた十種の尊称の一つです。最高の悟りを得た人をブッダ(仏陀=仏)と呼んだのです。なみに釈尊に捧げられた十種の尊称を十号といいますが、それは次の通りです。

  1. 如来(にょらい) 真如より来現した人。
  2. 応供(おうぐ) 阿羅訶、阿羅漢と音写されている。煩悩の尽きた者。
  3. 明行足(みょうぎょうそく)  宿命・天眼・漏尽の三明の行の具足者。
  4. 善逝(ぜんぜい)  智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。
  5. 世間解(せけんげ)  世間・出世間における因果の理を解了する者。
  6. 無上士(むじょうし)  悟りの最高位である仏陀の悟りを開いた事から悟りに上が無いと言う意味。
  7. 調御丈夫(じょうごじょうぶ)  御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる者。
  8. 天人師(てんにんし)  天人の師となる者。
  9. (ぶつ、buddha )仏陀。煩悩を滅し無明を断尽し自ら悟り他者を悟らせる者。
  10. 世尊(せそん) 人天の尊敬を受ける栄光ある者。真実なる幸福者

 釈尊は地上で最高の悟りを開いたので「仏陀」と呼ばれますが、過去七仏(大川隆法の魂の兄弟ではありません)という別の仏陀の存在があります。また、密教的な世界観・仏陀観では「真の仏陀」と言うべき大日如来がおられ、この方は地上に転生輪廻される方ではありません。大宇宙を創造した根本仏の個性化された方が大日如来であり、釈尊の個性とは別の方です。釈尊は大日如来の変化身の一つとされています。

こうした密教的な仏陀観が、投稿者の思想には感じられます。(投稿者からは、同時に図解も送っていただいたのですが、ブログにはそれをうまく掲載できませんでしたので、言葉で補わせていただいています。)

ちなみに密教の曼荼羅では、中心に存在する大日如来がさまざまな如来や菩薩やその他のあらゆる生命として顕現している世界観をあらわしています。その大日如来はいわば大宇宙を創造した根本仏の個性化ですから、全ては根本仏の展開となります。すべての存在には「仏性」が宿っているという主張は、ここから出てきます。

 投稿者はこういう密教的な仏陀観を下敷きにして、釈尊は霊世界から仏陀(大日如来)に霊指導されていたと考えているようです。おそらく過去七仏も霊指導していたと考えているのでしょう。

投稿者によれば、釈尊は霊世界に還られて後は「仏陀」として地上と霊世界を指導されたのですが、釈尊は霊世界でも大日如来の指導の下にあります。「仏陀を指導する仏陀」と言うべき存在が大日如来です。この方は毘盧遮那仏とも呼ばれています。

 釈尊は大日如来の指導方針のもとに指導をされています。それ以外の仏陀(たとえば阿弥陀仏など)も大日如来の指導の下に指導をされています。これが曼荼羅の世界観です。投稿者はこうした密教的な仏陀観、霊界観のほうが真実ではないかという主張をしているのです。

 ここには、地上に出た覚者は、預言者としての立場を見失うべきではないという主張も込められています。ちなみに投稿者の図解では、霊世界の「仏陀を指導する仏陀」である大日如来は、「仏陀」である釈尊を指導し、その釈尊が地上の弟子たちを指導している図が描かれています。地上にあって覚者という存在といえども根本仏、そしてその個性化である大日如来)から見れば、全員が弟子であるという主張です。そうした謙虚さを失う時に転落が始まるのではないのかという警告が、ここには込められているようです。

確かに地上にある以上、最高の悟り(仏陀の悟り)を得たとしても矢張り認識力は霊世界の仏陀に比べると大きな制約を受けます。そうした謙虚な自覚を失うと、そこから過ちが生まれることでしょう。釈尊は非常に謙虚な方ではなかったかと思います。偉大な悟りを開けば開くほど、霊的な自己存在が大いなるものであるという認識が生まれると同時に、一つの個性としての自己存在の小ささを自覚していくからです。

そうした謙虚さを伴わないものは、実は悟りからの転落だと思います。それは自我が肥大化しすぎた状態にすぎません。自我のスーパーインフレーションであり、最も危険な状態です。
 

浮遊霊世界について

 自分とは何かを知らない人は、死後迷いの世界に行くと言われています。迷いの世界には大きく二種類あります。地獄界と浮遊霊世界です。地獄界は自らの迷いの重さにより沈んでいくあの世の世界ですが、浮遊霊世界はこれとは異なります。自分が霊であることもわからず、自分が何者かがわからない時に、地上的なものに執着をしてあの世へ行けない霊が迷い込む世界です。

 浮遊霊世界の特徴は、そこにいる霊には彼を導きに来た霊が見えないということです。そのために、浮遊霊世界に入り込んでしまうと、その霊を助け出すのが非常に困難となります。そこで、死んで浮遊霊世界に入る前にその霊を導く役割の霊人が必要になります。それが「想念の混濁を感じ取ることができる霊」です。

 さて、浮遊霊世界に入らないもう一つの可能性は、迷い霊自身が自分が「迷った」ことを自覚するときです。この時は迷い霊自身に導きを求める気持ちが生じるため、その求めに応じた導きの霊が来てくれます。そしてその導きに従うことで、浮遊霊世界から脱出するか、そこに行かなくてすみます。

 「想念を辿る」という表現がありますが、ある人の過去世をどう認識するかは、認識する人によって見え方が変わってきます。認識する人の悟りによって、相手の過去世が千差万別に見えてきます。従って、その時に認識している過去世が真実か否かは、時間の流れの中や他の霊人の認識に照らして検証しないと、真実であるかどうかがわかりません。仏陀と釈尊を同一視していると、正しい認識ができなくなる恐れがあるので、注意が必要です。

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