2013年6月13日木曜日

(投稿)信仰の試しと許しについて


信仰の傷と向き合う

(紹介)

これまでの長い転生輪廻の歴史のなかで、家族の命を救うために踏み絵を踏んだり、神を信じた故に迫害され殺されたりした魂の経験をすることはありえます。そうした記憶は、深層潜在意識の傷となって残っている場合が少なくありません。

自分自身の深層潜在意識の傷と向き合う中で、その傷と向き合う中から生まれた思想を投稿してくださった方がいます。自分の心の傷と向き合う中で、許しや寛容が生まれてくるように思います。
 

(投稿)

過去の時代において、さまざまな迫害の歴史を見ると、イエスの信仰を貫き、見事に殉教された方、一方でそうではなく、信仰の救いを得られなかったことへの恨み心を持った方、信仰を捨ててしまった方、とさまざまです。

今の時代を生きる私たちが、彼らの生き様を見て、「信仰の試し」を乗り越え、見事に殉教された方を褒め称え、逆に「試し」に屈してしまった方を批判することは造作もないことです。

今という一見平和な時代から見たならば、迫害の時代というものは、何とも矛盾に満ちた世界であり、そうであるからこそ、彼らには「信仰の試し」が与えられたのだ、といった見方もできるかもしれません。

しかしながら、このような迫害などを1つとっても、実際にその場で追い詰められた時の信者の人達を、あとの時代の人が客観的にその状況を見て批評することはできないと思います。

「なぜ、最後まで神を信じ切ることができなかったのか、なぜ神から見捨てられたと感じるのか。」

と批評したとしても、それはその人やその場の状況がどのような凄惨なものであったかが、一体今の時代を生きる私たちがどれほど理解することができるでしょうか。

 
私も、その時代に迫害された方で、最後まで信仰を貫き通した人達に敬意を表します。

自らに与えられた「信仰の試し」に打ち勝つということは、大変素晴らしく尊いことでありましょう。

では、そうではなかった人達は、心の弱い、信仰の弱い人達なのでしょうか。

「信仰の試し」であったことは間違いない事実ですが、それだけで、そう短絡的に、切って捨てるように、そのような方達を判断することはできないと思います。
 
「信仰の試し」に屈した人にも、神の光は注がれているはずです。当然、許しも、です。

私には、「信仰の試し」に屈した人達の気持ちが痛いほど良くわかります。

その人達の苦しみ、自分の心の弱さに対する自責の念。

彼らも苦しんでいるのです。

その苦しみ、自責の念が、私の心の中に、ひしひしと伝わってくるのです。

周りが責めなくても、自らの念いで苦しんでいるのです。

それも責めてもどうしようもありません。

神がすでに許しているように、周りの人達もその方々を許すべきで、責める資格はありません。

神は彼らを責めていないのですから。

彼らは、その時代を去った後も、ずっと自責の念で苦しんでいます。

神を裏切ったのですから。

神に恨み心を抱いたのですから。

自らに課された「信仰の試し」を乗り越えることができなかったのですから。

でも、神は許しているはずです。


日本でのキリスト信者迫害の時代に、「踏み絵」を踏んでしまった信者の話を聞いたことがあります。

その方は、死して後も、その行為についての自責の念いに苦しんでいることでしょう。

しかしながら、イエスは言うでしょう。

「たとえ我が像を踏んだとしても、それは決して我を汚したことにはならない。
そのような像は決して私ではない。
我は、あなた方の中にあり、そしてあなたがたと共にいる。
そのような像を決して私と思ってはならない。
踏み絵という行為を通して、自らを責める方々よ。
もう、自分を責めるのはよしなさい。
あながたが踏んだもの。
それは決して私ではないのだから。
もう、自分を責める必要はない。自らを許しなさい。」
・・・・と。
 
そう、過去の信者の中には、迫害体験を通して自らを責め続けている方々がたくさんおられます。

私もその一人です。

私のように、神に恨み心を抱きながらこの世を去った方たちもいることでしょう。

でも、もうそのことを責め続ける必要はないと思います。

神はすでに私たちを許してくださっているはずです。

あとは、自らが自らを許すかどうかです。

自らを責める念いというものは、本当に神の御心にかなった念いであるのか。

それを自らに問いかけていかねばならないと思います。
 
私は、信仰についてあれこれ語る資格は自分自身にはないと思っています。

「信仰の試し」1つをとってみても、自分が同じような環境におかれて、自らの命が奪われるような環境に実際に置かれたときに、本当に「信仰」を貫けるのだろうか。

自分の命や、護らなければならないものも全部捨てて、果たして「信仰の試し」に打ち勝つことができるのであろうか。

それは分からないと答えるしかありません。

 ですから、この日本のような、身の安全を保証された環境の中で、
彼らのような「信仰」を確立することが、どれほど難しいことでしょうか。
果たして、彼らの「信仰」を真の意味で理解することができるのでしょうか。

そういってしまうと、「信仰」について何も語れなくなってしまいますが、
少なくとも「信仰」を語るということは、それなりの覚悟がいると思います。

自分の心の傷、そして相手の心の傷を受け入れ、それと向き合う覚悟がいると思うのです。

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