2013年6月12日水曜日

<心の探求シリーズ31>日本論②


真の光一元と日本の使命

(前回から続く)
光一元論の本当の意味

深層潜在意識 先ほど、光とともに影があるといいました。物事には、光と闇、表と裏の両面が必ずあって、光が強いほど、闇も強くなる、といった、いわゆる二元論的な見方があります。確かに物事を考えていくときは、この二元論的な見方が必要です。

 ただし、それとは別に光一元論というものがあります。この両者は両立するのでしょうか。こうした歴史的な思想の対立というものがありますが、先ほどの問題と重ねて説明していくことにしましょう。

 ある物に光を当てると、必ず影ができます。その光を強くすればするほど影の濃さも大きくなります。これが光と闇との関係、いわゆる二元論的な考え方です。また、ある一方から物体をみたときに、そこには必ず見えていない部分がでてきます。表と裏との関係とでもいえましょうか。これも含めて二元論的な考えといえると思います。

 さて、ある物に光を当てながら、別の角度から光を当てるとどうなるでしょうか。別の影ができますが、影の範囲と濃さは小さくなってくるはずです。また、ある物体に、複数のカメラで写せば、見えない部分が少なくなってくるはずです。では、光を照らす数を増やして、あらゆる角度から照らしていけば、影はなくなっていくはずです。闇の部分がなくなっていくのです。また、あらゆる角度からカメラで写せば、見えない部分がなくなって、全体像がはっきりするはずです。これがいわゆる光一元です。

 神は光一元。確かにその通りです。この世も光一元。その通りです。でも二元論も存在する。確かにその通り。

 要は、この世的、3次元的視点でみれば、二元論となり、この世を越えた多次元的視点で見れば一元論となるのです。あの世では、神の光は、上空の一方から降り注いでいるとお思いでしょうか。あの世では、神の光に照らされて影ができるとお思いですか。

 一元論と二元論は両方真理なのです。ただ、見方が違うだけで、どちらが優れているということはないのです。

 ですから、この世を生きるには、一元的な見方(本当は多元的な見方といえるかもしれません)、二元的な見方が必要です。

 実用的な意味で言うと、いろいろな角度から、物事を眺めていくということが大切です。そうして初めて全体像が見えるのです。一方的な見方からせずに、あらゆる角度から見てアプローチするということが大切です。

 先ほどの問題でいうと、スケープゴードという問題が出てくれば、違った視点から彼らを救う方法を模索していくということです。違った複数の視点を持つことによって、闇は減っていくのです。

 しかし、心が縛られた状態では、物事はどうしても一方から見ることができません。まず心の縛りを解くこと。いわゆる、心を自由にすること。色眼鏡や執着をとっていくということ。常に白紙の目を持ちながら見ていくということです。

 まあ、観自在の境地を目指すということでしょうか。そういった修行が必要ですし、心理学的な観点からも、こういった必要性が説かれています。

 

はぐくみの器としての日本

深層潜在意識 最初に戻りますと、この日本を「器」としてとらえることが必要で、日本のアイデンティティを強めることは、逆によくありません。そうした視点をもつことによって、初めて彼らも客観的に捉え、受け入れることができるのです。この日本は、そうした人たちをも育む「器」なんだと。

在日外国人を病巣として忌み嫌うのではなく、日本という「器」に中にいる同じ組織体として助けていくという見方が大切なのです。彼らもこの日本という「器」に受け入れられているのですから。そして、彼らをあらゆる角度から見ていくということです。

また、この日本をあらゆる角度からみていくということも必要です。まだ一方的な見方しかできていません。地球的、宇宙的な視点でもって、あらゆる角度から見ること。そして初めてこの日本の全体像が見えてきます。彼らも然り。それが、闇を消していく第一歩となるのです。

 光一元とはそうしたものです。確かに神から光が出ています。しかしながら、神は別のはるか彼方の上空にいるのではなくて、私たちは神そのものの中に存在しており、私たちも神の一部なのです。

ですから、あらゆるところに光が満ち、あらゆるところから光が拡散されているのです。

ですから、「一元」であると同時に「多元」であるのです。多元的な見方をしていくということが、すなわち、二元論から一元論に昇華させていく道でもあるといえるでしょう。

以上

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