2013年5月27日月曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り③


2.反省の教義の根本的な誤りとは何か(後半)



 2)我欲を悪視する所に悟りなし
 

肉体煩悩の原因を解決できていない教義

 K会(幸福の科学)教義では、我欲が出てくる思いの原因を取り除くということを言われていますが、全ての我欲に対し解決するのは不可能だと思います。確かに我欲が苦の原因ですから、我欲の原因である心を突き止め解明すれば、苦の原因を取り除くということに繋がります。我欲に捉われ続けると執着となって心から欲が離れず苦しむのですが、執着になる前に原因の我欲を取り除くことが先にきます。それが出来るものもありますが、できないものもあります。できないものは客観視の段階で我欲を感情の無いものに抽象化して意識から外していきます。これさえ、実はかなり難しいのです。でもどうしてもできないものもあります。

 例えば、色情の欲というものがあります。これは肉体煩悩から来るものです。原因は肉体です。肉体から来る欲は、一般的に消せないのです。欲の味をしめて心から離れずに異性に捉われると執着になります。ですから、K会はコントロールして捉われないようにアドバイスをします。中道です(後述します)。

しかし、何処までが中道か否かは凡人にはわかりません。中道を探ろうとしても難しいのです。ですから、自分や他人を害さない範囲内で理性による処理をされていると思います。

しかし、K会は悟りを求めます。いくら行為に出なくても心で思って捉われては悟りではないのです。そこで我欲がでる原因を探れというのです。原因を探れといっても肉体から来ているものは、答えが出にくいのです。

例えば、毎晩仕事で遅く睡眠不足になった時、仕事が溜まっているが睡眠をまずとりたい(睡眠欲)というのが我欲かどうかです。仕事中に寝てしまった場合は、我欲というより悪い行為に見なされます。半日休みを頂いて睡眠をとってから会社に来て仕事をした場合はどうでしょう。以降、仕事もはかどっていきます。睡眠欲を満たした方が良いのです。

色情欲はどうでしょうか。これは教義にもありましたが、我慢し続けるより月に1回処理したら以降捉われないならその方が良いというものです。これは我欲を満たすのを肯定している場合です。ここにも問題があります。肉体煩悩の場合、年齢、妻帯の有無によって肉体、条件が違うという事です。月に1回なら良いのか、2回までなら中道なのか、週に1回なら執着なのか、妻帯者なら許されるが独身者はどうすればよいのか…、ということです。教義では答えが出せていないのです。出せないのです。

これは悟りを目指して悟りの法を説いているわりには、雑過ぎるのです。何故なら、「修行者が最後まで悩むのは、特に色情の欲」だからです。一番つまずく所です。私もこれには悩みました。つまり、心の努力で消せない我欲の問題を、K会の教義では説けていないのです。これはK会の教義では悟れないということなのです。

因みに私は自己流で到達しましたが、色情の欲を消すには、色情を忘れるしかないのです。これは可能です(ただし肉体は機能を果さなくなっていく)。しかし、できない方がほとんどです。これは正しくはないと思います。これが正しいのなら肉体機能は不要ということになります。私もこれは本来の悟りとは違うと思い数年で止めました(止めると徐々にですが機能が戻ってきます)。

肉体煩悩は我欲の発生しやすい最たるものなのに、解決できていないのです。その結果、ただの禁欲へと教えが向うだけなのです。(しかし、教祖をはじめ、職員の実態はどうなのでしょうか。いろんな噂はありますが、外部の人間にはわかりかねます。)

以降、要点を簡潔に書いていきます。 
 
左右にハンドルを切り直す教えの誤り

K会ではよくハンドルを切り直すことを教えます。苦しみが発生しているのは、心の選択が誤っているからであり、選択を切替えなければいつまでも変わりません。だから、左に切ったハンドル(心の選択)で苦悩が発生しているのなら右に切り直せば済むことなのです。これが、ハンドルを切り直す教えです。ハンドルを切り替えるのは、今出ている我欲を断ち切ることと同じです。

しかし、金銭欲が出ている原因が、生活が苦しいからというのであれば、経済を得る為に仕事を工夫して効率を上げたり、休みにアルバイトをしたりというように良い方向に向えばプラスです。ハンドルを左右へ切り替えているというより、我欲を昇華させているという方が近いと思います。

又、お金がもっと欲しいから地位欲が出ている場合は、会社に貢献するように考え発想し一生懸命に働き実績を上げ、みんなの幸福に繋がる行動をもしていくことが大切です。やがて我欲は消えみんなの幸福を感じればそれが一番の幸せだと感じてくるのです。

もし金銭欲のハンドルを切り替えて、K会の教義通り足ることを知る心を実践しても、現実の生活が苦しいなら金銭欲は消えはしないでしょう。心を無理に納得させているだけです。それでは我欲を昇華させることもなく悟りもないのです。

上の人間を陥れ自分の地位を上げるということを考え行動した方は、暗闇が迫ってきます。こういう人は、常に不信、不安、恐怖の中で生きています。不幸です。これも我欲を昇華させていけば良いのです。

我欲は我欲だけでみれば、ただの欲ですが、欲を高尚なものへと昇華させていけば、我欲があるから悟りもあるということに気づくのです。我欲を単に悪視して、左がダメなら右というような単純な選択では本当には解決しないのです。これでは、悟れないのです。

又、ハンドルの左右切り具合がわかってくれば中道がわかってくるとも指導しますが、これは屁理屈です。我欲は千差万別で、出てくる状況、年代、環境、タイミング等で違い、同じ種類同じ深さではないのです。一つ一つ切り具合が分かる訳がないのです。
 
欲は愛の想いによって昇華していく

結局、K会の教義は単純に我欲を取り除くことが中心になっています。左右のハンドルも同じです。これは単純な故に、非常に難しいのです。何故なら、客観視による我欲の除去と同じ理屈だからです。

神が我欲を与えられているのは、悟らせる為ではないでしょうか。我欲がどこまでも欲の追求なら、欲また欲の暴流に流されていくだけでしょう。我欲を離れなければ執着になって非常に苦悩します。もしも我欲を離そうとすれば、客観視による除去になります。

しかし、我欲を昇華させていくことを考えれば、先では我欲が愛に変わっていくのです。我欲の先に待っているものは、愛です。金銭欲が恵まれない子供の為にという愛に変わっていくのです。その為に成功してお金を大切にしていこう。足ることを知ろうということになるのです。

ここで初めて、正しい教義は生きてくるのです。単に我欲は悪、身を滅ぼすものとし、我欲を消す、除去する方向へ向うのが、悟りではないはずです。我欲ほど自分に正直で純粋な心はないかもしれません。つまり、我欲は善悪どちらにも染まりやすいのです。ほとんどが悪の方へ流れます。これを善なる方、愛の想いへ流すのが悟りへの道ではないでしょうか。

我欲を悪視して見つめている間は、悟りへの道は遠ざかっています。

我欲を愛の思いで昇華させようと努力した時、悟りへの道を歩みだします。

探求が足らないのです。

神は人に無駄なものを与えてはいない、ということをもっと知る必要があると思います。

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