2013年5月30日木曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑥


③正思は内なる神に感謝して愛しているか否か


正思は、愛の想いがあったかどうかです。愛の目で見ようとしてできないのは、その時の思いがどうであったかということです。つまり、正見は、相手の中の神の心を見ようとしたかどうかなのです。それができないのは、自分の中の神の心を見られてはいないということなのです。正思において、内なる神の心に感謝して愛する想いが途切れていることを意味しています。

 出発点は、内なる神の心に感謝して愛することなのです。だから、他者の内なる神の心を愛する事ができるのです。人の嫌な面を見て、嫌な言葉を聞いて、それだけを見て愛する事はできません。煩悩、我欲が発生してくるだけです。K会はこの発生してくる我欲と勝負しているのです。でもこれは間違いです。

そうではなくて、誰もが同一の本質である神の心を知り、愛心を見るからこそ愛することができるのです。

釈尊は万人に救済の法を説かれました。誰でも実践できないとおかしいのです。当時でも専門知識が必要なら出家者しか悟れないことになります。そうではないはずです。唯一、誰にでもある思いは愛の心です。釈尊は、誰にでも内に存在している慈悲の心を中心に説いたに違いないと思います。

 (正語、正命…、以降はみなさまにお任せします。愛の視点です。)

 

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