2013年5月30日木曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り②


2.反省の教義の根本的な誤りとは何か(前半)


1)教義の客観視自体の大きな落とし穴

 教義でいう客観視というのは、物事を感情に流されず、ありのままを見るということです。教義では、客観視が八正道の入口になっています。つまり、まず客観視ができなければ八正道は実践できないことになるのです。見る時点で自分の主観、感情が混入すると以降の反省はいくら行なったとしても誤ったものになっていくからです。だから教義では客観視を入り口に持ってきています。

教義での客観視は主観に流されないとあります。これはつまり、心が我欲に流されずに見るということです。我欲は、苦の原因であり様々な欲、色情、怒り、恨み、憎しみ、愚痴、不満等であり、またその思いを起させている我欲です。人間はわかっていてもどうしても我欲に流される面はあると思います。客観視はかなり難しいのです。

 つまり、K会の教義でいけば、八正道は相当難しい実践形態になっているのです。入口の正見でさえ、一生掛かってもできないかもしれません。挫折していくのは、入口の入口である客観視です。ものの見方に我欲を混入させない為には、心に浮かんだ我欲を辞典で調べるかのように、これは我欲であると判定し、しかも我欲という自己の心以外のものが心に存在しているという認識をしているだけの状態を心に作り出さなければなりません。簡単に言えば、鏡に映った汚れ(我欲)を外部から人間が見て汚れ(我欲)だと単に認識しているような感じにどうしてもなってしまうのです。何故なら、我欲に心が感応すればその時点で心が我欲に流され始めているからです。

 インドの釈尊がこんな難しい難解な法を万人の為に果して説かれたでしょうか。私は、疑問です。ですから、K会でいくら八正道研修をしても、ものにならないのです。何十年経った今でも再び、八正道といっていますが、わからないのです。入口の客観視が実践できない、悟れないのです。ですから、悟りを開いた人を聞いたことがありません。但し、霊道を開いた人はお会いした事があります。教義の「客観視」は、これを実践していない方のほうが救われていると思います。信者に伝えたいのは、教義の客観視は実践してはいけないということです。とことんまで実践した私はそう思います。

教義の客観視には大きな落とし穴が待っているからです。幸いに実践するのには難解過ぎて、その分助かっていると思います。反省は単純でいいと思います。悪い心がでたら素直に詫びて、出さない努力をすれば良いと思います。日々、謙虚に誠実に「ありがとう」、「すみません」の基本でいいと思います。
 
①私心を殺す受身の客観視で無感情な人間になっていく

教義では、正見は客観視から入ります。様々な感情に捉われずに自分お姿が映った映像、自分の発した言葉などを客観的に見るということです。自分がどう感じたか、相手が自分を見てどう思ったか、真理に照らしてみて反省し、見方を真理に近づけていくというものです。

教義は一杯ありますが考え方は同じです。簡単にいえば、心の誤りを正し、智慧を持って「与える愛」の実践をして世の中を幸福にし、真理である仏の心に近づいていくことです。その一歩がこの客観視です。客観視ができていないと相手の感情や我欲に振り回されます。ですから正見で客観視が最初にきているのです。

主観や私心のない客観視は、一見して正しく思いますが、実は誤っていると思います。つまり、鏡なのです。鏡はただ鏡の前のものを映し出すだけです。鏡には感情がないので鏡は揺らぐ事がなく映しているだけなのです。この状態を心に作り出しているのです。鏡は相手の感情を知りません。ただ聞こえた言葉の内容や映像の内容を理解しているだけの状態を作り出しているのです。人間の言葉や映像を認識できるロボットと同じです。

例えば、同じ言葉を聞いても相手の思いは違います。K会の信者はよく「人が良過ぎる。」と言われるでしょう。誉めているのか、警告か、皮肉か、愛着を感じているのかは、相手の感情を味わってみて初めて解ります。主観をなくし、ただ言葉を受けるだけでは解らないことも多いのです。確かに私心や主観をなくして相手の言葉を受ければ、傷つきにくいのでその時に自分の感情はあまり出ずに映像や言葉を捉えることはできるでしょう。私はよく無表情、無感情といわれた事があります。このような客観視の弊害です。感情が揺らがなくなる代わりに豊かな心が失われていくのです。

客観視は、積極性がなければならないと思います。例えば、相手が自分に怒ってきた時に、相手が何故怒っているのだろうと思い、相手の気持ちや言わんとしていることを積極的に理解しようとすれば、心は傷つきません。そして、理解できたならその場で、謝れば後に反省はいらないのです。謝る言葉に心もこもります。ただ単に鏡に映すような客観視は、無感情な人間を作り上げていきます。これは、ロボットと同じです。断片的な法を埋め込まれたロボットなのです。

誰もが観音菩薩像を見たことがあると思いますが、なんともいえない笑みを浮かべて慈愛に満ちています。菩薩が客観視ができていないかといえばできていると思います。あのような方が生きておられたなら、みんな集まってくるでしょう。お解かりでしょうが、何かが違うのです。何かが。

 ②我欲のセンサーである客観視は、心を抑圧していく

心の中の我欲を取り除くということは、簡単に言えば、湧き出た我欲を「思わない」ようにするということです。思わないようにするにはどうするかといえば、「考えないようにする」ことです。これが進めば一刀両断の如く思いを断ち切れるようにもなります。その為には、常に我欲を識別できる心のセンサーが必要です。これが、第三者の目、客観視です。センサーによって我欲を発見すると心の中の「法マシン」(法にかなうように自動的に作動する心の働き。パターン化された思考の働き。)が我欲を取り除こうとします。

例えば、ステーキが食べたいという思いが強く湧いてきたとします。その時に瞬時に信者の我欲センサーが働いてこれは我欲であると識別します。すると「法マシン」が足ることを知る、「与える愛」という知識を心に浮かべます。現実にはお金が厳しいし、そんなお金があるならば、書籍を購入して献本しようとなります。足ることを知って粗食で我慢しようと思い、ステーキを思わないようにします。又、信者でなくてもお金が厳しいから望んでも仕方がないと思い理性で納得するのです。これは誰にでもあります。

しかし、理性では抑えきれないものもあります。 例えば、大好きな女性に執着を抱いている時がありますが、悩んだ末ついに勇気を出して告白したけれど断られたとします。断られた事は承知しているのに、心がいうことをきかず、諦められないことが若い時は特にあります。執着は苦しいものです。どうしていいかわかりません。我欲センサーがフル稼働しています。法マシンは検索中ですが見つかりません。ただ一つ、私心、主観のない見方の客観視、我欲を取り除くということだけが検索に引っかかりました。どうすればよいか自分で悩みます。結論は客観的な視点から見て、女性に捉われている心の感情を断ち切ってしまうことにしました。その為には、主観があれば感情が湧いてきて捉われるので、感情が無い状態の心を作り、捉われている思いに対して、「思わない」という意識を強く持つのです。

もう少し解りやすくいえば、心を客観的に視ている目(心)には感情はないのです。その目(心)から客観的に視ている心の中の我欲を除外するのです。除外とは「思いの外へ」というように我欲を意識しない状態を作っていくのです。これを繰り返し数日でその女性に対する感情が消えていきました。客観的な見方をして、自分の心をただ眺めている心があるような状態です。我欲が表れてもその感情に流されない心の目があるのです。そうすれば、捉われないようになってきます。仏に心から詫びて許しを請う努力をしても難しかったが、客観視による我欲の除去が成功して、その方は常に客観視をするようなりました。我欲に捉われないのです。

このような我欲の克服や心の解決は邪道です。邪道とは、苦しみの原因が我欲なら単に我欲を消せば良いという考えです。非情に科学的な考え方です。確かに我欲を思わなくなれば、欲による苦しみも消えていきます。禁欲的になっていきます。

しかし、このような我欲を取り除く心の作業で、実際に我欲の思いを断ち切れたかどうかは疑問があります。これはある程度、理性的な心がないとできないのです。第三者の目(心)というのはどちらかといえば理性的だと思います。心の底から間違いに気付くというようなことではなく、心に強制しているような感じがします。鏡に付着した汚れを汚れと見なさないようなものです。汚れを汚れと見なさないので我欲に感応しなくなります。最初は、かなり圧迫感が続きます。無感情で眺めている状態、第三者の目の心が悟りの中心になっていきます。喩えるなら第三者の目が人の目で、心が鏡、布切れが理性、人が鏡を布切れで拭く(意識しない)ようなものです。本来は3つ全て一つの心ですが分離されるような感覚があります。客観視は良いのですが、釈尊の法がすり替っているような気がします。

(種村注:この方法では、自分の心に沸き起こった感情を味わうというプロセスがなくなる。感情はこれを味わわないと、抑圧が生じて、結果、抑圧した感情に振り回されていく。抑圧するということは、意識がコントロールできない潜在意識の世界に追いやることに他ならない。自分の心の内に生じた感情は、これをまずしっかりと味わうということが重要である。そのためには自己受容が大切になる。受容し、それを味わって理解するのである。次にその感情が生じた原因を探ることが手順となる。K会の反省法では、不都合な感情は否定するので味わうことをしない。ゆえに抑圧が生じるだけでなく、他者にその抑圧を投影して他者を裁くことが生じやすくなっている。裁き体質が発生する一つの要因である。)
 
③内なる神の心、愛する想いを封じ込め、愛の発展を阻害する

 第三者の目で自分の心を視ると、我欲センサーが働くので「我欲に捉われる自分」を感情に流されずに認識できます。

しかし、ここには落とし穴が待っています。本来の自分の心から「豊かな心・豊かな感情」が奪われていくのです。これは、自分の心を鏡のように見立てているからです。これは誤れば非情に危険です。心の逆転現象を起していきます。つまり、第三者の目が真実の心で、本来、我欲を無くし幸福になろうとしている心が鏡になっていくのです。何故なら、心から我欲を取り除こうとする作業は、心を鏡のように見たてないと、取り除けないからです。これには私はいつも何かが違うという思いはありました。

例えば、Aが「Bがあなたの悪口を言っていましたよ。」と聞かされます。事実を確認もせずに、「あんな奴、死ねばいいのに」(実際に聞いたことがあります)と言って翌日からBを集団で虐めたとします。そして、Bは日々悪態を受け、無視をされ、ついに病気になって会社を辞めてしまったとします。よく聞く事例です。

ここで、「ざまあみろ」と思う人は、暗闇の世界行かもしれません。しかし、後で「Bの悪口は嘘でAが、Bが自分より仕事ができ大事にされるのを憎んで嘘をついていた。Bは母子家庭で、生活に苦労していたが明るく元気に仕事にも前向きで子供の為に頑張っていた。今回の病気で子供は修学旅行にも行けなかった。」というような事実を知りました。それでも、「そんなのは知らない」という人は、地獄への直行便が待っているでしょう。しかし、仏の子ならば、涙を流して心の底から自分の行なった罪を悔いるでしょう。その方の笑顔や元気な言葉が心に響いてくるでしょう。この時に、内なる神の心が芽を出してきます。このような話を聞いただけでも涙が溢れる人は、内なる神の心と共に生きているのです。この内なる神の心、愛の想いが本当の自分なのです。

しかし、客観視での我欲の除去は、心の方向性を誤ると冷たい心になっていくのです。悪口を聞いても、「今自分に怒りの心が少しある。だから、思わないようにしよう。」となります。ですから、例のような悲惨な状況にはなっていかないでしょう。

しかし、何かが違います。ただあのような酷い言葉が自分の口から出ているのに、気づきもしない反省もしない言動も悪いでは、その方は余程心を入れ替えてやり直さないと以降に奈落底が待っているでしょう。最低でも人としての心に立ってないとどうしようもありません。

そういうことではなく、一旦、「あんな奴、死ねばいいのに」という心が出たなら、その心を受容して「どうしてこういう心が出たのか」という思いを点検していき、「私は陰口を聞いたら鵜呑みにしてしまう心がある。まず事実を確認することを自戒にしていこう。夜に反省を必ず行い、直ぐに反応して言葉を出すのは止めよう。」という解決策、努力目標が立ってきます。心の解決へと向うのです。

ですから、客観視よりむしろ相手がどういう気持ちで陰口を叩いてきたかを受容しようとする気持ちを持つ努力をした方が誤解や怒り、復讐心も無くなり、間違いは起こりません。そして、受容をしていくと相手の心を受け入れる心器が大きくなり、しかも豊かな心になっていくと思います。

誤った客観視をすると、先ほどの例のような話を聞いても鏡に映っている姿をただ眺めているだけなのです。法マシンは、「これは本人の業、カルマの刈り取りである」と検索指示しています。「これでBは人を憎まなければ見事にカルマを刈り取った。Bの為に現れてきた現象なのだ。」と思うのです。これは捉われないというより、法知識を振り回すだけで共感がない「無感情」に近い心です。ですから、冷たさ、醒めたものを感じるのです。K会に冷たさを感じるのは、愛の法にも問題がありますが、こうした悟りの法にも問題があります。愛の教えと悟りの法が結びついていない所に原因があります。バラバラなのです。そうなるのは共感する心が欠落しているからです。

だから、イエス様のことを、自分で自分を周囲に迫害させているという結論になってくるのです。愛より智慧を優先させる悟りの法の弊害が徐々に大きくなっていきます。

それは、誤った客観視を実践すれば、一番大切な心である「内なる神の心、愛の心」を心の内に封じ込めてしまうのです。

その結果、心が「空洞化」してくるのです。

つまり、愛の発展段階と逆行していくのです。愛が減少し、衰退していくのです。

それは、愛より智慧を優先し、無理やり潜在意識を目覚めさせる法をとっているからです。

心は神秘です。我欲を感じなくなると禁欲生活に入り、心の曇りが取れてきて、霊道が開いてきます。

悟りを求めると、教義ではどうしても、我欲の除去を優先する為の客観視が根底にきます。又、千差万別に発生する我欲に対応できず自己流になってしまいます。具体的な実践方法が薄いからです。ですから何でもかんでも教義の客観視に当てはめていきます。これが、八正道の入口として説かれているからです。

その実践の結果、愛が隠れてしまうのです。
 
④過てる客観視による反省では、我欲は取り除けていない

 過てる客観視による反省は、第三者の目で視て常に発生する我欲を自覚しようとします。その時、心に我欲に感応していないときでも、我欲は心に内在していると思われます。我欲は、肉体に接している表面意識に表れてきます。表れる我欲の思いは、眼・耳・鼻・舌・皮膚の感触を伴って表面意識に映し出されてきます。心が表面意識に映し出された思いをどうとらえるかによって、その思いの存在価値が決まると思います。

例えば、上司に厳しい事を言われれば、相手の思いが表面意識に映し出されます。その瞬間に「きつい人」、「良い事言っているがきつい言い方」、「確かにそうだ、実践してみよう」、「上司は私に立派になって欲しいから言われている。有り難い…。」等々様々に心が思うと思います。心の思い方によって、相手の思いが決定され相手の思いの価値や言葉の価値が決まるのです。

人は自分が自分で相手の思いを決めているのです。相手が自分の思いを決めているのではないのです。つまり、我欲と見なされる表面意識に映し出された思いを心が思わなければ我欲にならない訳です。表面意識に映し出された単なる我欲というものになるだけです。

 だから、自分の表面意識を第三者の目で、常に眺めている必要があるのです。ですが、我欲という思い自体を自分の心で解決していないから我欲は客観的に残ったままになっているのです。

例えば、先ほどの上司が本心を見せて、「私を嫌ってもいいからこの仕事を体得して欲しい。それが君の将来に繋がるから。」と言ったなら、上司の心を受容して、「いい上司を持って幸せだ。頑張ろう。」と感謝と力が湧くでしょう。よくある話です。これは心が具体的に思って解決していることなのです。これで、上司への我欲は消えた訳です。

つまり、鏡を見るような反省、実践では、客観視が途絶えれば、解決できていない我欲が一気に芽を吹くことになるのです。だから、K会の教義では、悟後の修行ということをしきりにいうのです。これは、本質的には客観視の継続かと思います。これは、転落していきます。

常に悪霊悪魔の憑依のリスクが付きまとう

 ここまで読めば、推測はおつきだと思います。霊的になってきてしかも心が空洞化してきますから、心の器が出来ていない状態だと完全憑依されて入り込まれます。心の器が出来上がるまでに、潰されてしまいます。器が出来てくれば、鏡に魔が映っているような状態を眺めていられるので、難しいのですが外すことが可能になってきます。丹田や霊的な力が強くないとなかなか耐えられるものではないのです。

 

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