2013年5月30日木曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑧

 
③中道は内なる神を見出す愛の道、八正道は愛の人生

愛の想いが前面に現れてくれば、愛の想いの人生が中心になってきます。内なる神の心を愛する想いが深まれば、我欲は両極端に去っていきます。この捉われて離れずしがみついている極端な想いが執着になっていくのです。極端な想いとは、例えば愛する想いが執着となり憎しみに変わっていくような心です。つまり、ただ欲を満たす為の欲という心から見た極端な想いが去っていくのです。

逆なのです。我欲を中心に考えて、極端を見極めて中道を探るのではなく、愛の想いが出てくれば、我欲は自然に極端に去っていき自然に中道(仏性、内なる神の心)が現れてくるのです。つまり、中道は、どこまでも限りなく、内なる仏性(神の心)、他人の中の仏性(神の心)を愛する道、即ち、仏性(神の心)を見出す道、無限の向上の道ということになります。

 ④四諦に感じる釈尊の慈悲

苦、集、滅、道というのが教義にもあります。私はその語源は知りませんが、苦の原因である我欲の原因を一々突き止めていくことは、不可能に近いと思います。釈尊が凡人には到底できないようことを救世の法として説いたとはどうしても思えないのです。

私がとことん実践した結果として思うのは、釈尊は、「苦(苦の原因である我欲)をまとめて、滅する道(昇華させていく)がある」と説かれたような気がします。我欲が滅されれば、神(仏)の心である愛(慈悲)の想いが姿を現してくるのです。それを実現するのが、内なる神(仏)の愛(慈悲)の心を根底とした八正道だと思います。内なる神の心を愛して、その心で八正道を実践すれば解ります。愛の八正道です。

我欲が連鎖して我欲を呼び、到底選別することができない様々重なり合った消せない我欲を満たす為の想いは、愛の想いによって、まとめて両極端に去っていき、純粋なる欲が愛に向い昇華していきます。

我欲の「我」は「自分の為の」と考えれば簡単です。愛の想いによって、我が退き、他の人の幸福の為に自分は実現していく、という意欲に変わっていきます。愛の想いで満たされた時に、我欲は去り、愛しか心にはないはずです。幸福感しかないはずです。感謝しかないはずです。そこには、恐怖、不信、怒り、憎しみ、貪り、愚痴、高慢、嫉妬、自己卑下、劣等感、嘆き、悲しみ、絶望、裁き、はなく、素直さ、謙虚さ、笑顔、信頼、喜び、自信、希望、反省、足る事を知り、感謝、する想いが湧き上がってくると思います。

内なる神の愛が姿を現せば、我欲はまとめて極端に去り、愛心で満たされる。

この内なる神の愛を見出す道が、どこまでも無限に神の愛に近づいていく道が中道である言われたのだと思います。

(空と中道の関係についての考えは、次回投稿します。要点として、空と中道は密接に関係し、人の想いは全て根本神に直接的に繋がっていると思われる。)

その実践方法として、八正道を説いたのだと思います。生きていく上で愛を忘れない限り、自分や他人、社会が幸福になっていく道だと思います。我欲を探求しても答えはでないのです。我欲の中には我欲があるのみです。一つ我欲が湧けば、連鎖して次々と湧いてきます。

しかし、愛を実践すれば答えはでるのです。大好きな人に断られ、ずっと尾を引いて苦しんだ自分が、一発で苦悩から逃れられたのは、「あの人が結婚して幸福になっていくことを私は願おう」という愛の心が出たときに、執着は去っていったのです。

愛無きところには裁きがあります。愛は憎しみにもなりえます。これは、我欲の目で相手を見ているからなのです。しかし、内なる愛の心が目覚めれば、憎しみは両極端に去り、愛の想いが現れるのです。

長い年月を修行、修行といって行なわなくとも、今日から明日から誰でも変われるのです。誰でも中道への道を歩めるのです。釈尊の救世の法は、万人が実践できて、万人が今日からでも自己変革していける。万人が今日から人生を好転させていける。それ程までに本物の仏陀の法は凄いということです。

参考「洗脳解除に役立つ本」


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