2013年5月20日月曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ④・・・善と悪の根本問題


4.善人の愛の誤り



    ①愛なき所に悪は発生する

   悪の発生要因としてK会は、自由と自由の相克の中に悪が発生すると教示していたと思いますが、これも疑問です。

現代はみんな自由です。他人の自由を奪おうと言う人も珍しいでしょう。

それでも悪が発生してくるのは、個人個人の自我我欲が原因です。

自我我欲が心の内にある間は、心の中に欲が留まっていますが、自我我欲を獲得する為に他人を犠牲にする行為をしたならば、それが具体的な悪になって現れていると思います。

 心で思ったことが行為となって現れてくるので、当然、心中の我欲を統御する必要はあります。

別に自由が悪い訳ではないのです。

相手を拘束して自由を奪えば、相手は苦しむでしょう。犯罪者、病気の隔離等は別として、自由が相克しているのではなく、何かしらの我欲でもって自由を奪っているのです。

 自由と自由の相克が悪というなら、自由経済、自由競争そして自由自体も悪になるでしょう。

近所に同じ商売店ができて売上が下がったなら、同業者同士の間に悪が生まれるのでしょうか。

自分より成績優秀な学生が転向してきて、成績を抜かれたなら自分とその転校生の間に悪が発生するのでしょうか。

又、お客様の所に行く途中、車のトラブルで車が立ち往生していたならどうするでしょうか。クラクションを鳴らして邪魔だと怒鳴るでしょうか。

 もし悪が生まれるとしたら、妬みや嫉妬の心、恨み心などが出てきて愛の無い行為(悪意の行為)に及んだならそれは、その者の心に原因があると思います。何かの我欲を得んが為の行為でしょう。

しかし、逆に、相手を認めて、頑張って追い越そうと努力工夫して、お互いに発展していくこともできます。又、可哀想にと思い、車を路肩に力を合わせて除けてあげる。これも、心のあり方一つです。

 つまり、悪は愛の無い所に発生してくるのです。

 悪が自由と自由の相克から生まれるというのなら、全く自由のない世界だとしたら、悪は発生しないのでしょうか。

全て神の言われる通り行なわなければならないのなら、悪は発生しない代わりに幸福感はないでしょう。神の愛を感じないからです。幸福感が無いと言う事は、自由がない事態に、悪と同質のものを見ると思います。そこに愛の欠如をみるのです。

 裁き神のようにいうことを聞かなければ滅ぼされるようでは、怖くて生きていけません。心に悪を作りそうです。そうなれば、裁き神に立ち向かう人もでてくるかもしれません。

もしくは愛の神に救いを求めるでしょう。

善人の愛は悟りの境地だ

  こう考えますと、善人の愛は、我欲を排した段階の愛だといえるでしょう。

善悪の判断と善行の実践ができなければいけません。

常に我欲より善を選択できる境地の人、常に我欲より愛を選択できる人です。

 別の見方をすれば、善悪が判断できて、外界の現象や欲望に心が振り回されないで、愛が実践できる境地の人です。これは、悟りの境地です。これは結構レベルが高いと思います。

私は教義でいくと4次元が精一杯です。男女の愛、社会への愛もまだまだ未熟です。

やはり、けっこう困難な愛だと思います。
 
善行は愛の行為の結果
 
いつも人に感謝する人、相手の気持ちを大切にする人をみれば、善人にみえます。

行為によっては仏様にみえる方もいるでしょう。

善行を施すから善人ではありません。愛を持って接するから善行が自然に現れてくるのです。

善行を施しても愛がなければあまり意味はないでしょう。
 
仏教に三輪清浄という言葉があります。釈尊にお布施をする行為は、善行です。

しかし、布施するお金が汚れていたり、布施する人が見返りを求めたりした場合、釈尊は受取らないのです。見せ掛けの善行は善行ではないのです。

確かに、お布施があれば教団は助かりますが、汚れた物や心では意味がないのです。

もし、お布施をする人に世の中の為に役立てたいという愛の心があったなら、見返りは求めないでしょう。
 
愛ある想いから愛ある行為は生まれてくるのです。

愛の行為の結果が善行であり、善行をしようとする心が必ずしも愛には繋がらないのです。
愛する心が根本なのです。

善人の愛というものが別にあるわけではなく、愛の行為の結果が善行であり、行為をする人が人々から善人に映るのです。

 

 

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