2013年5月26日日曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り①


 脱会者からのメッセージ)反省の落とし穴を検証する

(解説・紹介)

 Xさんからの投稿です。Xさんは幸福の科学で学んだ反省法・八正道を懸命に実践してこられました。その結果、この教えでは悟りは得られないということと、この教えでは愛が消えていくということを、はっきりと悟るに至りました。ご自分の悪戦苦闘の経験をもとに、幸福の科学の反省法・八正道の問題点を明らかにしたのが、この投稿です。 私自身この原稿を読ませていただいて、Xさんのこれまでの求道の真剣さに頭が下がる思いがしました。Xさんが実践体験を通して気が付かれた幸福の科学の教えの致命的欠陥は、教えが素晴らしく見えるのになぜ実践ができる人がいないのかという疑問に、確かな答えを与えてくれると思います。

 すでにご紹介した愛の教えの欠陥と、この反省の教えの欠陥が明らかになることで、幸福の科学の教義体系の根幹部分が音を立てて崩れていくのを感じる人は少なくないと思います。在家の元信者から提起されたこの問いかけに、教団側はどう答えることができるのでしょうか。現在の幸福の科学の職員に、この問題提起に応えることができる人がいるのでしょうか。真剣に法を実践した結果生まれた問題提起に対しては、矢張り真剣に向き合って応えていく姿勢が法を説く人の責任であると思います。注意して見ていきたいと思います。


Xさんからの投稿)

 K会の教義には、正しい良い教えもたくさんあります。しかし、何故か実践ができていないのです。いざ実践しようとすると、どう実践してよいかが解らないのです。良い教えは書いているのです。例えば、正しく見たか(正見)というのがあっても正しいとは何かということです。正しいとは「仏の目」で見ることだと教示していますが、誰も仏の目は知らない訳です。大きな枠でこういう見方をするというのは、教示していたと思いますが、実践するとなればそれ以上に細かい様々な状況が現れるのです。「仏の目」は書籍に載っているといいますが、ほとんど抽象的で、実践論としては無理があります。大きな範囲で教示しても細かい実践はできないのです。大きな枠で教えていても実践できるのが、本来仏の教えのはずだと思います。ところが大川氏の教えでは、せっかく実践した場合でも、心の豊かさが失われたり、いつまでも苦悩の状態が続いたりします。勿論中には、教義のように実践できれば教義通りのようになっていく場合はあります。でも何故か幸福にならないのです。

これらはやはり、教義に何らかの誤りがあるからだと思えます。あくまでも私の体験上のことを基本として、霊的な点も踏まえて記述していきます。

(注意:霊的な点は過去の回想により記述しています。現在は、そのような力はありません。)
 

1.反省の教義と実践

 
一見素晴らしく感じる反省の教義

 K会(幸福の科学)で教えられてきたのは、苦しみの原因は自我我欲であり、これが執着になれば、脱することのできない苦しみとなるということです。単に自分を悔い改める一般的な反省にとどまらず、心中の我欲の原因を見つけ、二度と過ちを犯さないように原因を取り除くという作業が重要であるということでした。これは理論的には正しいのです。苦しむのは心ですから、苦しみには心の原因があります。そして行為は心の現われですから、心の原因を解決しなければ苦悩は解決しません。

 狭義の反省において、苦しみの原因である我欲を取り除く作業は、汚れた鏡を拭いてきれいにしていくという作業に似ています。鏡をきれいにするにはまず、汚れた部分を認識しなければなりません。その部分を拭くことによって、その部分はきれいになります。これを日々少しずつ行なえば、鏡は全てきれいになります。ただ、汚れの酷い部分は何回も拭かなければ取れません。これは執着の部分です。

きれいになっても放置しておくと日々鏡は汚れで曇ってきます。ですから、日々、汚れた箇所を拭き取る作業が必要です。これが日々反省です。鏡は様々な汚れ方をしますので、何種類かの洗剤液を使って掃除をします。これが反省の仕方である八正道です。鏡の汚れを認識するのは、鏡に自分を映してはっきりと姿が見えるかぼやけて見えるかで解ってきます。この映し出そうとするのが客観視(注)です。反省においては、第三者の目で自分を視る、心と行いを心に映し出して視てみるということです。この教えは、一見真理にみえます。

(種村注:反省は自分の外に視点を移して自分を見ないとできない。外から自分を眺めるのが客観視の基本である。この視点の切り替えは、恐らく左脳から右脳へ使う脳の働きが切り替わっているのではないかと思われる。そこで切り替える方法だが、頭で考えただけでは切り替えることができない。これが反省法がうまくいかない理由の一番ではなかろうか。心理療法のエンプティ・チェア・テクニックを使ったり、そこから発展したロール・レタリングの要領を使って、自分の心の中でそれを行うとうまくいきやすい。自分の人生を映像としてみるのも客観視である。外から見ていることになるからだ。なお、種村トランスパーソナル研究所では「焦点づけの技法」を開発し、反省法をより高度にしながらも誰にでも行えるようにしている。)

K会では、反省を通して心がきれいになっていけば、自己や世界の真実を鏡のように映し出して、より正しい道を選択できる認識力が働き幸福な人生を歩んでいけると教えています。言い方を変えれば、自分の内に眠る智慧の目が芽生え、心が外部からの影響で心が揺さぶられることなく、他人を教導しながら無限の向上を目指して行くという悟りの状態、阿羅漢の境地になっていくということです。これを簡単にいうならば、「鏡は世界を映し出すが、鏡自身はなんら曇る事がない」ということです。これがアラハンの境地です。

この境地に近づいてくれば、霊道が開けてきます。K会の教祖(大川隆法)の教示の通りかと思います。ですから、私は長らくこの教えの誤りがわかりませんでした。教え自体は素晴らしく感じるのです。ただしこれは、愛より智慧を先行させている教示です。

教団の初期においては、まずは阿羅漢を目指すように教祖は言われていて、教団全体が悟りの向上に力を入れていたのです。しかし、個の悟りも十分でないのにも関わらず、大伝道の号令がかかると、そこから悟りより数値重視の活動に変貌したのです。

反省の教義の実践

この反省法の教義をどう実践するのかというのが、次にくる問題です。反省の指針としては約2500年前の八正道という釈尊の教えがありますが、K会の教祖は真説八正道を教示していました。やがてそれは仏説八正道に変わっていきました。

私は日々反省していましたので、私の場合を簡単に書いてみます。ここでは我欲は苦しみの原因としています。K会の教義では、どう反省するかをきちんと説いたものは八正道の教示くらいなので、その説かれた範囲の中で各自が工夫するしかありません。そのために会員はどうしても自己流になってしまいます。まずは、私の実践ケースを紹介します。

 
客観的に視て、今日1日を振り返る(時間的に、正見から正精進くらいまで)

自分や相手が心苦しくなった(傷ついた)場面や欲に捉われた場面等を振り返る

(見方、思い、言葉、行為など大体は正見から正精進までが精一杯)

客観的に視て、発した想いが正しいかどうかを考える(我欲か否か)

相手の気持ちを考える(又は、相手がどういう気持ちになったかを思ってみる)

相手に、心から詫びる(自分の非を認め相手の気持ちが受容できた時以外は難しい)

仏に、心から詫びる (自分の非を認め相手の気持ちが受容できた時以外は難しい)

客観的に視て、発した心がどういう我欲であったかを考える

客観的に視て、どうして我欲が出てきたのかを心で考える(場面、その時の思い、行動等より)

(解らない場合は、保留してK会の書籍でヒントを探し探求を続けていくが、解らない場合が多い)

我欲を心から取り除こうとする(鏡を拭き、汚れを取る)

(教示通り、心から欲の思いが湧かないようにその心を取り除いていく)

明日から実践する課題を決める(⑨を実践する、八正道の実践:主に正見から正業)

と大体はこのような感じです。これだけするだけで、結構時間が掛かります。たいへんです。しかもお祈りもしますので、2時間くらいは過ぎていきます。

この中で難しいのは、⑤⑥の心の底から詫びるというところと、⑦のどういう我欲か、⑧のどうして出てきたのか、⑨の我欲を心から除外する、は難しいです。心から詫びることができたなら、教義の通り本当にシャワーを浴びた後のような状態に自分がなります。心に苦悩なく優しく素直で謙虚になります。許された自分を感じます。このような経験をしている方は多いと思います。当初、この経験をした方の話は良く聞きました。

  因みに、これを何年も日々、繰り返し実践すれば、後光が射し出して霊道が開いてきます。本当に教祖の言う通りなのです。しかし、この開き方の霊道は、かなり危険なものとなっていきます。



反省を実践するとどのような現象が自分に起きるのか

  以下、過去を思い出して、私の体験上ですが、わかりやすいものを記述します。(魔の攻撃に関しては、魔を引き寄せる可能性を配慮して、具体的な記述は避けます)

一、教義の通り反省を繰り返せば、心の曇りが消えだしてくるように思います。実際、意識の表面では、消えているように思います。何故なら、霊道現象が起きるからです。では何故心の曇りが取れていくのかということになります。ここが問題ですが、後述します。

二、心の曇りが取れていけば、我欲に流されなくなってきます。禁欲的な生活になってきます。心の曇りを取る相乗効果が現れます。鏡から汚れが随分となくなってくるのです。心に両極端さがなくなってきて、八正道により中道の実践をしているように思えてきます。

三、自分を常に第三者の立場から視られるようになってきます。自分の心が自分を常に監視しているような状態です。ですから、少し心が揺らいだ時や我欲が出ればその場で気づくようになり、その場で軌道修正をかけられます。軌道修正とは、誤った心を出さないように努力することです。常に悟りを追い求めて来られた方は、こういう感覚は理解できると思います。

四、無口になって落ち着いてきます。よくしゃべっていた自分がおとなしい自分になってきます。これは多分、常時自分の心を見つめているからだと思います。人から雰囲気が変わったと言われます。

五、なんともいえない不安が襲うようになります。心はきれいになっていっているのに不安が出てきます。これは、ほんの些細な事でも察知してしまうようになるからです。自分の心が揺らぐということに対してはまだいいのですが、相手に対して罪を犯しているという自己処罰感が出てきます。その場で心の中で相手や仏に詫びるのです。そしてどうしてそのような心が出てきたのかが課題になります。

六、何故か、以前の自分より心が弱くなった自分のように思えます。これは別の見方をすれば、豊かな心ではない自分を感じているということです。誤った思いが出ていないか、凄く繊細になります。しかし、法を広める思いは強いのです。それと対照的に活動以外の愛の思いが積極的に出ているというよりは、消極的で隠れていくような感じです。心はきれいになっていくのですが、愛心が縮小しているような感じがします。我欲が出ているか否か、愛を与えているか否かの思いが付きまといます。これが消極的な繊細な心にしてしまっているのです。

7、きれいになっている心を「持続させている」というような感じがします。どうも自然体ではなく、随時において持続させようとしている心があります。客観視はほとんど随時においてしています。何故か、自然ではない心を感じてしまうのです。因みに相手の思いが手に取るように解ってきます。離れた知らない人でも相談されれば、その人のことが解ってきます。

八、他人に対する慈悲の思いではなく、心を傷つけてはいけないという守り、消極的な自分がいるのを感じます。積極的に前に出るという心もあるのですが反面、極度の気遣いもあるのです。

九、霊道現象の時期が近づいてくると、極端に悪霊悪魔が攻撃をしてきます。もの凄い攻撃です。毎晩やってきます。この時期はまだ完全に心の曇りが取れていない状態です。特に残っている汚れの部分を狙ってきます。心で防がなければならないのですが、非情に厳しい戦いになります。

一〇、霊道は開かない方が良いという結論になります。というか、恐ろしい程、強い魔が日々やってきますので、肉体も疲れ果て限界がきます。仕事に差し障りが出てきます。確か、教祖は1990年代中期から霊道禁止令を出していたと思います。物凄い魔の攻撃に一人で立ち向かうのは不可能です。もし完全に開いてしまったら、魔に入り込まれた(完全憑依)のは間違いないと思います。皮肉にも禁止令を守ったから助かっています。この時期に私と同様に霊道を開きかけた方がいました。その方は開く寸前に守護霊から「開きますか、開きませんか」と問われて、「開きません」と答えたそうです。何故なら、「怖かった」ということでした。つまり、教祖は活動会員が霊道を開きかけていることや組織に対する魔の攻撃を知っていたことになります。今開けば、魔に入られるという事を知っていたことになります。

 大体これくらいで留めておきます。これを読んで幸福になっていると感じるか、いやちょっとおかしいのではないかと感ずるかです。トータルでみて、良い面、悪い面があるのは仕方ない、不安や弱い自分を感じるのは一時的な通過点と思うか、危険であると思うかです。反省からの自己の中道的な発展(種村注)として悟りに向っているか、悟りではないような気がするかです。現象をみれば悟りではあるようだが、何か不自然さを感じるかです。心の両極端を去り中道に向っているか、否かです。

しかし、教祖は、嘘をついてはいないのです。確かに、最終的な現象は教義の通りになってくるのです(教祖の教義が正しいと認めている訳ではないですよ)。

 〈種村注:中道的発展とは中道からの発展と呼ばれている。左右の両極端を離れて、それを否定し、中道に入ってこそ発展できるという思想。左右の両極端とは、たとえば自己否定と他者否定です。両方ともに偏りがあることに気が付き否定すると、自分も相手もともに生かされていて縁により何かを気付かせてくださるために出現した出会いであると捉えることができる。そこから建設的な人間関係や人生の発展が起きる。これは中道的発展である。〉

 
霊道を選択するのは、我欲の判断が多い

  その後、私はどうなったかというと、見事に悟って抜苦与楽しながら法を広めていったならおめでたい話しですが、逆の見事で、転落していったのです。守護霊の判断(沈黙)は正しかったと思っています。

私の場合、開くか否かは問われませんでした。開かない意思や迷いがあったからです。それは、仕事をして生きなければならないという人生を見ていたからです。その時には転落するということは、思っていなかったのですが、守護霊には見えていたでしょう。もし開いていたら魔の餌食になって一生を棒に振っていたでしょう。

たとえ転落という言葉で表わされる事態になったとしても何度でもやり直しはききます。ちなみに完全憑依された方もいますが、この場合は何年、何十年と仕事等の復帰は難しいと思われます(全てではないでしょうが)。私にも相談はありましたが、相談を受けるのを辞退したことを覚えています。

最後に霊道を選択された時に霊道を開くのは、我欲の判断が多いと思われます。そこには、教義でいう悟りの出発点(阿羅漢向)が目の前に差し掛かってきています。教義では確か「霊界との同通」(反省が進んだ状態での霊道)ということであったと思います。それを本人は自覚しています。教義で説かれていることと現象として体験することが一致しているからです。

この時に、開くかどうかの判断は実は、識(表面意識)の部分での判断になっていると思います。つまり、自然に完全に開けてくるのではなく、判断を要するのです。ここで、現実を無視して思い切って開くということは、何かしらの欲があると思った方が良いと思います。私の場合はどちらかといえば、守護霊に霊道を開かない方に導かれていたような気がします。つまり、守護霊は見守りつつ主体的に判断させたのだと思います。魔に囲まれた環境では、ほとんどの場合は、開かないほうが無難だと思いますがどうでしょうか。

 

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