2013年5月30日木曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り④

3.教義の八正道の最大の誤りは、根底に愛の想いが欠けていること

 









正道を捻じ曲げる正信の恐怖

1)目に見える生き仏を信じる危険性


親を愛し信じている幼い子供は誰でも親を真似ます。同様に人は強い信頼をおいている人の言われることを「あの人の言う事だから間違いはない。」と信じる傾向があります。ましてそれが、生きた仏への信仰であるならば、絶対的な信頼になっています。

生き仏の言葉は仏法、仏の教えといいます。この法の内容を吟味すれば良いのですが、信じるということは盲目に等しく信じている間は是非が解りません。それは盲目に信じるという思いは、思考停止を生むからです。「仏の法は絶対の理法で、全て正しい」という洗脳状態に入ります。私もそうでした。こうなってくれば、生きた仏の手足になっていきます。仏の想い実現の為の手足になっていきます。活動信者はまさに生きた仏の手足になっています。

正信(正しい信仰)というのは、一歩誤れば恐ろしい教えなのです。それを八正道の正見の前においているのは、八正道の実践で正見、真実に気がついてしまわない為のものです。ここが違うと、以降は全てこの信仰による目、行動で実践します。即ち生き仏の想い、欲望までも形を変えて自分の心にコピーされるのです。

K会では正業は法を広める事を最高として捉えます。その為に精舎、学校、埋葬所等を建立し、莫大なお金が必要になるので、布施の精神を説きながらも祈願、研修、法話の金額にまで目安の額が付加されています。高額になると1千万以上の目安で植福菩薩の称号を与えられます。

伝道、布施、研修、献本等は全て修行論として捉えられ、悟りの道への修行という見方をし、正精進ということになります。これは、法が間違っていれば全て邪道になります。そもそも布施に目安金額が付加されているのは布施の精神、正思に反します。これは生き仏の心が誤っているのです。目安金額が出せない人は、救われないということなのです。法話さえ聞けないのです。生き仏から見て、一番大切な法を説いても聞く人が限られてくるということです。経文には確か、仏陀の説法は宝の山とあったはずです。釈尊が貧者の一灯を説かれたのは、このような悪事を見通されての事だと思います。あくまでもまずその心、気持ちが大切であるということです。又、悟ってもいないのに一気に菩薩の称号を与えるのは、正精進に反しますから、本来の釈迦の八正道の精神に反しています。

つまり、八正道における正しい目、正見が出来ていないのです。正信というのは、正しい信仰により正しい法を学び、実践するということです。正見は、正信によって得た真理の目の心で世界をみていくということです。つまり、正信=正見、正しい目で見る為の真理が正信、真理の正しい目で見ていくのが正見ということになります。正見ができていないということは、正信が誤っているということなのです。

本来、八正道というのは、自己の心を反省によって点検し、過ちに気づいたならそれを正していくという実践論です。自己に向けられた修行法です。生き仏を仮に仏陀とするなら、仏陀が説く法で金銭の多寡を決めるでしょうか。悟ってもいない者に菩薩の称号を与えるでしょうか。高額な建屋を建立する事を先行させて、布施を集めるでしょうか。自分がもつ時計に一千万近いお金をかけて、それをいくつも収集するでしょうか。

これに気がつかない人は、信仰において思考停止の状態にあり、正邪の区別ができなくなっているのです。つまり、正見が実践できていないのです。誤った正信によって、目(心)に霞がかかっているのです。これに救世、菩薩、仏弟子というキーワードが重なれば、自己陶酔の状態に入って行きます。しかして、釈尊の八正道は、誤った信仰の道具になってしまうのです。

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