2013年5月22日水曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ⑥・・・愛の発展段階説の悲劇


6.愛の発展段階説の根本的な欠点

 

 私は正しい道のりで、段階論を説くのは良いと思います。その方が解りやすいと思うからです。

又、段階に応じて心の発露を定義するなら、それでも良いと思います。

確かに、愛という悟りの境地において、段階はあると思います。

しかし、その段階論の出発において誤りがあった場合や段階論の捉え方を誤った場合には、大きな弊害が生まれてきます。一番大きな弊害は、神の子としての本質が見失われることです。その本質とは愛です。この弊害は大きな悲劇になると思います。

 
  愛する愛が一番大切

 
 最大の欠点は、愛する愛を低次元の愛と定義したところに一番大きな問題があります。

これが、愛が欠落している状態を生み、魔を引き寄せる根源の一つにもなっています。

事実、教団自体に愛が感じられないのです。教団に感じるのは裁きです。

愛する愛を見下す心があると、まず自分自身を本当に愛せなくなってきます。

仏性を説きながら、仏性を見出せないのは、仏性(内なる神の心)を愛することをしないからです。代わりに教祖を愛しているのです。

仏性は、ただ信じても本当には信じられないはずです。自分の仏性を愛さないということは、他の人の仏性も愛そうとはしないのです。かくして仏性を愛する想い、人を愛する想いが隠れていきます。

見方を変えれば、仏の子という自分が見出せていないのです。愛が実践ができていませんから、「人間仏の子」も単なる知識にすぎなくなるのです。 

K会に居れば「頭でっかち」になる理由は、実践ができていないからです。

この上に「与える愛」の実践と称して、法(主に書籍献本、法話等)を広めさせていきます。この行為が菩薩への道になっているのです。

与える愛というのは、「与える」から愛ではないのです。愛するから与えたくなるのです。なのに広める行為(「与える」)が先にきて、根底の愛する愛が欠落しているのです。

私も同じでした。愛と言いながら相手の思いを受容して本当に愛していたかといえば、法を広める方が優先していたと思います。

これを永遠に続けていても悟りは遠ざかり、愛は隠れ、人を見下し、人を裁き、世を裁き、最後に不幸が襲ってきます。不幸は神の警告です。
 

  境地に関係なく現れる愛

 
次に、悟りの段階に応じて、愛があらわれるという理論が問題です。

母親の例を挙げましたが、母親は子に対しては菩薩なのです。ですから、菩薩を知りたければ、子に対する母親の愛を知ればよいのです。これはどういうことかといえば、悟りがどうのこうのと言わなくても菩薩の想いが出ているということです。

母親(父親)は子に対しては、与え切りなのです。母親(父親)が一々子に対して「与える」と思っているでしょうか。「この子には幸福になって欲しい」という思いだけだと思います。これは持続した想いなのです。

親は子供の為なら命さえ投げ出すでしょう。これが神の本質だと思います。 

つまり、神の本質は、悟りの境地に応じて現れるものではないのです。誰にでも現れるものなのです。実は誰もが神の本質を知っているのです。神の本質とは愛なのです。

段階論の捉え方を誤ると、その境地に達することができなければ、その境地を知ることができないことになってしまいます。 

段階論の理論は、教祖に都合のよいものになっているのです。高次元の境地は、教祖しか解らないということになってしまうからです。

また高次元霊のインスピレーションは教祖しか受けられないということになってしまうのです。

補足しますが、種村氏が波長同通の法則が誤っていて、教祖に都合よくできていると言われているのは、この捉え方なのです。

誰もが菩薩への道が用意されているということです。そして、誰もが菩薩の境地を知っているのです。

私が洗脳やその後の逆境から抜け出せたのは、高次元大霊のお陰なのです。正に生きる力を与えられたのです。生きる努力をしたのは自分です。神仏は支えて下さいました。

こうして、体験を踏まえて投稿しているのは、その感謝の想いと少しでもお役に立ちたいという報恩の気持ちからです。 

神の本質は、悟りの境地に応じて現れるものではありません。悟りの境地に応じて神の本質が変わるものではなく、全ての人は愛するときに神の本質に触れるのです。

即ち、これが不生不滅、不垢不浄、不増不減の神の本質です。変わることがないのです。ですから、誰もが見出すことになるのです。

神の本質が現れるのは、本質を信じることではなく、愛するところに現れてくるのです。

万人が実践できることなのです。

万巻の経典を読むよりも内なる神を愛することの方が大切なのです。

知識は必要ありません。

 
  各愛の境地は現象(結果)であって、本質ではない

 
各段階の愛の境地を科学的にみて書くならば、K会の教義のようになるのかもしれません。

でもそれは三次元界の現象を表したもので、愛がもたらす結果を論理的に考えて特定の境地に置き換えているだけなのです。だから、本質を見忘れるのです。結果だけを追いかけるようになるのです。

例えば、許す愛の世界では、許すことができる世界を展開しているわけではないと思います。

仮に許すことができる世界とすれば、許す愛の世界では、既に許しがあります。

これが、仮に生かす世界があるとして、生かす世界においては許しがないのでしょうか。

生かす世界にも許しはあるでしょう。

ならば、善人の世界ではどうでしょうか。許しはあるはずです。

なら、地獄ではどうでしょうか。地獄では許しはないのです。何故か、他人への愛がないからです。地獄を支えておられる神には許しがあります。しかし、地獄の心には許しがありません。愛がないからです。

天上界の各世界において、許しがあるのは、愛には許しが内包されているからだと思います。

お互いに愛する想いの中で、許すか許さないかというような想いは無いと思います。既に許し許されている心だけがあります。

教義でいけば、6次元の生かす愛の世界の修行は、菩薩を目指しますので、許す愛の修行をして許そうとしているのかもしれません。これでは、6次元世界は人間界と同じになります。

大切なことは、どこまで神の心を見出すことができるかです。

いいかえれば、どこまで、神の心を愛することができるかということなのです。

身内を自分のように愛しているのか、親しい知人なのか、知り合う他人全てなのか、国民か、人類か、未だ見ぬ未来の人か、神が創造された全てのものか、・・・きりがないくらい広くて深いと思います。

その時々に現れた各境地において、善行や許し、生かし、存在、救い、創造・・・が現象として出てくるのです。

元来、神は愛の想いによって大宇宙、魂、人を創造されたのです。

愛が先、根底なのです。

神に愛の想いがなければ、私たちは存在していないのです。

もっといえば、全ての人が神の子ならば、神の本質、すなわち愛しか見出せないのです。 

結果だけを追いかけると本質を見失います。

許そう許そうと結果を追いかけても許せないのです。

生かそうと思っても生きないのです。

仏性を信じようとしても信じられないのです。

与えようと思っても本当には与えていないのです。

神の本質である愛、その愛の本質は愛することなのです。

自他共に内なる神の心を愛すれば、仏性は姿を現し、純粋な愛が与えられ、許しが与えられ、生きる力が蘇り希望が与えられます。

K会の教義は往々にして結果論になっています。結果を追いかけても実践は、できないのです。

結果は、愛する想いの中で自然に現れ、それを感じてくるからです。

科学は現象に対する分析結果であって、心の教えにはなり得ないのです。

自分の中の神の心に感謝して愛すること、他の人の中の神の心に感謝して愛することが、愛と悟りの原点であり全てなのです。私はそう思います。

  洗脳下にある人や洗脳解除で苦しんでいる人、脱会後の後遺症で苦しんでいる方々が、内なる神の愛に目覚めますように日々、祈らせていただきます。

 

 

 

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