2013年5月21日火曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ⑤・・・愛の発展段階説における許しの問題


5.生かす愛と許す愛の誤り
  ①  生かす愛と許す愛の矛盾

 
 私の経験上、生かす事と許す事は密接に関係していると思います。

私は仕事上、長らく管理職を務めていましたが、ある部下が思うように動いてくれない時やミスを連発したり、職場に何年もいるのに指示したことまでできなかったり、一部の仕事の管理さえできなかったり、実績が全く上がらなかったり、実は免許がなかったり、お金に手をつけたりと色々問題はありました。自分にも問題があったと思います。

こういう時には、悩みます。部下を替えるかどうかです。複数人に悪影響がでるからです。それ程、上に立っている者も苦しいのです。 

しかし、私は何とかして生かす道はないかと思案することにしました。

最初は、そういう気持ちは出なかったのです。辞めて頂こうかとさえ思ったのです。

何故、生かそうという気持ちになったのかというと、人は誰でも生活して生きていかなければならないと思ったからです。その部下も年老いた親や子供がいました。幹部の役目として、やはり生活を守るのが使命でもあると思ったからです。

私はこれまでのことを許したのです。その部下の事情を家族のことも含めて受容したのです。

実はその部下も私同様に苦しんでいたのです。その後、その部下はよく頑張ったと思います。

そして、会社で生かそうと思い思案した結果、何とか生かすことができました。

もし、私でなく他の管理者なら即刻首を切られていたと思います。因みに経営者は首の方でした。もし経営者に託していたら、生かすどころか、部下は会社を去っていたでしょう。

振り返ってみれば、K会の教義でいけば、生かす愛が先ですが、私が思うに、許す事ができないと人は生かせないと思うのです。

許す心がないと、人を裁いて遠ざけたりします。その方を生かそうという思いは出てきません。むしろ、言葉は悪いのですが、排斥しようとするのです。

人間に対しても同様に、いくら罪を犯しても、神はチャレンジの機会を永遠に与えられています。地獄界も同じです。生かしておられます。

それは、不完全な人間や悪魔、悪霊さえ、その存在を許して下さっているから生きているのです。

生かそうとする為には、信じる心が必要です。かならず、良くなっていくというその人への信頼がいると思います。

神は自分の分け御霊である人間の魂を信じておられるのだと思います。


  相手の気持ちを受容した時に許しがある

 
自分に向けられた悪意ある言動を見て、その行為をした方に対する怒りや嘆き等の想いは自分の心に刻まれます。しかし、許すという思いは、自分にそういう想いを抱かせた相手を許そうとします。自分に向けられた思いと行為を許すのです。

これは同時に、自分の内に発した怒りや嘆き等の心を許すことにもなるのです。そういう状態になっている自分の心を許すということでもあるのです。

つまり、他人を許すというのは、他人の中に見出している心と、怒りや嘆き等で渦巻いている自分の心を、ともに許すということになると思います。

しかし、どうして許す事ができるのでしょう。

私が思うに自分も他人も同じであるという思いに立った時に、許す事ができると思うのです。

それは、隣人を愛する愛です。同じ神の子として、他人の中の神の心を愛する心だと思います。

例えば、「苦しんでいるのは自分だけではなかった、あの人も苦しんでいた。」という時や「あの人の本心は嫌われてもいいから、今の私に必要な事を気づかせたかったのだ。」というように相手の心を受容した時に許せるようになると思います。

何故なら、相手の苦しみを知った時に、相手に対して本心から申し訳ないと思って愛の思いが出てくるからです。反省とはそういうものです。

自分だけが一方的に苦しいのではなく、相手も苦しんでいるのです。

 又、本心で自分に向けられていた愛を知るから、許すことができるのです。

本当に人に愛されていたことが解った時に、人は変わります。息を吹き返すのです。

今までの怒りや恨み、嘆き等は消え、反省が始まり感謝と愛の思いが湧き出て許しに変わるのです。

感謝の気持ちの表れとして、「あの人には幸福になって欲しい。あの人の幸福の為に私に何かできることは無いだろうか。」という愛の想いが湧いてきます。

 
  許しは愛から生まれる現象である

  K会の教義である生かす愛から許す愛ではなく、許す愛から生かす愛が正しいのです。

  ところで、K会で長年月学んだ人でも、自分を不幸にした者を許そうとしても簡単には許せないのではないでしょうか。何故なら、K会の教義には実践する方法がないのです。それは、愛する愛が低次元に置かれているからです。これは大間違いです。

許すためには、愛することが前提です。神は人を愛しておられるから存在を許されているのです。

しかし、神は許そうというお心ではないと思います。ただ愛しておられるのではないかと思います。

許すという境地には、他人の中に、自分の中にもある「神の心」を見出さなければならないと思うのです。それは、他人の中の神の心を、自分自身と同じように愛することです。

私は、母親の子に対する愛の想いの中に神の心をみます。

何故、母親が子供をいつも許す目で見ているのか。許そうと思ってはみていないのです。

それは、我が子を自分のように愛しているからです。菩薩とはこのような愛の心をもった方だと思います。

つまり、許すとは、相手を自分のことのように愛することなのです。許す愛とは、許すことができる愛ではないのです。どこまでも他人を同じ神の子として愛する境地に現れるのが「許し」なのです。

愛する中に既に許しの想いが含まれているのです。許すから愛するのではないのです。相手に対して愛の想いが出た結果、許しへと向うのです。

相手の思いを受容したときに、愛の想いが相手に対して湧いてくると思います。その時に、相手を憎む思いは、許そうとしなくても自然に消えていくのを感じると思います。

許されるのは、相手に対してだけではないのです。自分の心も同じです。

相手を許そうとしてもなかなか許せないのです。それは、受けた悪行を記憶しているからなのです。

もし記憶がなかったら憎む事もないでしょう。でもしっかりと覚えていていつまでも憎んでいます。その心が温存する限り、許せないのです。

つまり、自分の中の神の心が憎んでいる自分の心を許すのです。それは、自分の中の神の心を見出した境地といえると思います。

内なる神を深く愛している境地です。他人の中の神の心を深く愛している境地です。

そこには既に許しの境地も存在しているのです。そこに許そうという意思はないのです。


  許しが存在する場所

 
自分の中の神の心を愛すれば、怒りや嘆き等は消えていきます。

これは自分の心が癒されたというよりは、苦しんで暴れて心に悪さをしている心が許されたという感覚です。

同じ思いで相手の中の神の心を愛したならば、相手の心が許されるという現象が現れるのです。これは、一見、不思議に感じますが愛する心は相手の心に響くのです。

自分がいくら相手に「あなたのことは許しました。」と伝えても心に愛が無ければ、相手は許されたとは感じないと思います。

しかし、真に相手の内なる神の心を愛したならば、相手の方は、許された自分を心より感じ取り、許しを与えて頂いた方の中に菩薩を観るでしょう。やはり、自分の中の神の心は、他の人の神の心に繋がっているとしか思えないのです。

ですから、大切なのは許す為の愛ではなく、自分を愛するように他人を愛するという愛なのです。

 因みに、この境地は、悟りの段階でみれば、かなり高い段階かと思われます。内なる神の心を見出し深く愛している状態といえます。

別の言い方をすれば、神の子としての自覚が出来上がっている状態かと思います。他人の中に神の心を見ることができる状態だと思います。

ですから、神の心に対する愛の想いしか存在していない境地かと思われます。もし、次元構造があるならば、他人の神の心を愛する心が現象として展開して、利他という世界が現れていると思います。

部分的にみて、K会のいう利他の世界は、正しいと思います。

しかし、許す愛という名称を付けて定義するのはまだ良いとしても、実践の仕方がわからないところをみれば、本質を見るまでには到達していないような気がします。

もちろん私もそうですが、では何故これが書けるのかと言えば、多分、私に合わされたインスピレーションだと思います。何故か、未熟とはいえ書けているのです。不思議です。

   生かす愛の誤り


生かす愛も同じです。生かそうとする愛ではなくて、許しを与えられた結果、その人は生きてくるのです。許しによって、生かされるのです。つまり、愛する想いによって命が吹き込まれるのです。

いくら生かそうとしても相手が生きようとしなければ、生かされません。生かそうとする愛は、自己満足の愛だと思います。生かそうとするところには、砂塵が混ざります。生かそうとする愛を自己認識で感じることが、既に愛ではないのです。

愛とは、許そうとか、生かそうとかを意識しないところに存在しているのです。

K会の教義でいくと、生かす愛は、生かそうとする愛になっています。知性、理性で教導していくのは、愛というよりは、この世的な学習の成果で導いているのであり、愛というよりは頭脳という感じがします。上流から下流へと流れるように教導していくこの愛に、何故か冷たさを感じます。上者から下者へ教導を与えているということでしょうか。ここには、感謝の気持ちが欠けています。

人々への感謝が無いところには、愛は無いのです。

それは、努力の過程であって、愛の境地ではないのです。

上下の見方は一方的な自己満足の与え方で、相手の気持ちの受容が欠けているのです。

人を生かすには、確かに愛がなければ生かせないので、生かそうとする愛にはなっていると思います。

会社の中でも適材適所を考えたり、色々な部署を経験させたり、研修等で社員の能力を高めたりしているのは、社員を生かそうとしているのです。真剣に社員の人生のことを取り組んでいる会社は、人材が生きてくるのです。

こういうことをK会では生かす愛と言っているのでしょう。指導者の愛です。

しかし、何処までが指導者の愛で何処までがそうでないのかは解りません。指導者に愛があるかどうかも人それぞれです。

生かそうとしても生かせない場合もたくさんあります。

例えば、本人と面談して部署を変えたら退職した方もいます。従業員の幸福の為にと、経営理念を作成したら社員が退職した会社もあります。昇格を控え、結婚を控えた社員の生活の為に給与を上げようとしたら、意欲的な社員に突然欲がでて高級を要求してきて、結果退職するはめになったり、様々です。

人に良かれと思った行為でも本人の為にならないことはたくさんあります。確実に人を生かせることは、ほぼ不可能です。

何故なら、生かすのは本人自身なのです。その本人が生きなければ生かせないのです。

極端ですが、自殺しようとしている人間が生きるに為には、その本人が生きようとしなければならないのです。病気を患っている人が、生きようとしなければ、病気は悪化します。生かそうという思いで愛することはできても、最後は本人の心が決めます。


仕事で大きな失敗をした者がショックで落込んで、辞めるかどうかを考え出した時に、生きる力を与えるのは上司、企業の愛です。許しです。みんなの励ましです。

ですから、生かす愛というのは、おかしいのです。生かそうとする愛が正しいと思います。許しが伴う純粋なる愛は、本人に生きる力を与えるのです。

生きるのは本人です。生かすのは自分自身なのです。

 自分自身を生かすことができる愛をもって、生かす愛というのならまだ解ります。

どのような環境においてもどんな不幸があっても害されず、ひたすらに内なる神を愛し他人に感謝し続けることができる境地を、(自分を)生かす愛というのならまだ解ります。

これは、悟りの境地です。何人も侵害できない心の境地です。

 しかし、そういうことではないようです。

生かすというのは、人を愛する愛の影響力で、人が生きる力を与えられることだと思います。

あくまでも、生きるのは本人自身です。だから、人を生かす愛ではないのです。

 

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