2013年5月20日月曜日

(投稿)脱会者からのメッセージ③・・・愛なき裁き体質の原点を探る


3.教義「愛する愛」の誤り


   裁き団体になった理由

何故、このように愛の無い裁き体質の団体ができるのかといえば、愛するという想いが欠けているからです

 愛する愛、つまり人を愛することは人として基本の想いです。この想いが無くなれば、世の中は地獄界と化します。地獄界の特徴は、他人に対する愛が欠落していることです。

私は、教団に居た時に、よく悪魔の姿が見えました。悪魔がはびこる所は、愛が欠落している所です。我欲に走り、他人の愛を忘れている人には、悪霊がやってきます。

悪魔、悪霊に憑かれると様々な我欲、怒り、憎しみ、恐怖、不信、慢心、支配欲などが増幅させられてきます。そういう心が増幅されてくると心から離れなくなり、常にその想いが湧き上がってきます。これは執着になっているのです。どの心も不幸です。苦しいのです。

そして心の悪意が行為になって現れると、具体的な悪が発生してきます。悪魔が好きな破壊、闘争、欲望の世界です。

そこまでいかなくても裁きの世界が現れてきます。

愛の無い世界は裁きの世界です。人が人を裁くのです。

K会を脱会した多くの方は、会に対して「愛を感じない(冷たい)」、「人を裁く」という2大印象を持たれていると思います。この他、「お金がもたない」、「強制される」、「無駄なお布施」・・・等色々あるでしょう。

これらは全て、愛するということが欠けていることから来ているのです。

 それは基本教義に問題があるからです。

一番大切な愛する愛を低次元に位置づけ、5次元の愛として完結しているところに誤りがあるのです。

(初期の教義では、例えば男女の愛を4次元の愛としているが、途中で5次元に組み込んで5次元の愛の幅を広げている。)

この愛を根本的かつ一般的な愛とし、例えば男女の愛ならとくに修行して求める必要はないのです。そもそも人に備わっているものだからです。一方、社会、共同体に対する愛もこの愛に含めていますが、これは結構レベルの高い愛だと思います。ですから、実際にはけっこう困難な愛だと位置づけてもいるのです。混同します。

 更に菩薩を目指している信者は、この一般的な愛を軽視してしまう傾向があるのです。

例えば、会員が活動等で悲観した時に「私はこののまでは5次元に帰ることになってしまう。」と上から見下すような言葉をよく耳にしました。仏下生の今世、K会の目標は7次元許す愛の菩薩です。

しかし、愛する愛を軽視したツケは大きい。愛する事を軽視すれば、愛する事をしなくなります。真に愛する事ができないのに、虚偽を学ぶ人は次の段階は踏めるのです。又、その次の段階を踏まなくても、活動すれば7次元の修行にいけるのです。これは、変ですね。


  信者の心には純粋な愛がある

 信者は菩薩の7次元の修行として、仏の法を広めているのです。これを最高の与える愛の実践といいます。

その最高の「与える愛」の実践のなかで、実は他人を愛するという大切な愛の心が欠落していきます。これは、なかなか見抜けず抜け出せないところです。

活動している本人は、最高の愛を与えているという自覚(もしくは錯覚)があるのです。

当然、そこには他人を愛する思いが伴います。真実に気づいてもらい盲目の人生から脱してもらうために、救世の為に、仏の理想(地上ユートピアの実現)を実現する為に、という愛を自覚しているのです。

ここが難しいのですが、世のために人々の為にという思いは間違いなくあるのです。

ですから、その想いが愛ではないとはいえないのです。やはり立派な愛、純粋な愛なのです。私もそういう想いでしたから解るのです。純粋な想いなのです。

  「与える」という自覚がある愛は本当の愛ではない

ならどうして、裁き体質になるのかといえば、問題は、「与える」という自覚にあるのです。

本当に人を愛する想いというのは、与えるという自覚すらないところに生まれます。

 「愛を与える」という教えは正しいのです。しかし、「与える」という自覚が誤っているのです。

愛は、何かを与えるから「与える」ではないのです。

愛するというのは、「与える」という自覚はないのです。

ただひたすらに愛するということなのです。愛する中において自然に与えていくものなのです。 

確か教祖は、「愛は風の如く」と言っていました。正にこの表現が正しいでしょう。

では何故、「与える」という自覚ができるのか。大きくは、愛する愛を軽視した弊害、選民思想の弊害、次元構造の弊害、目標数値の弊害です。ここから発生します。

「私たちは、仏に選ばれた者たちだから法を広めて救済しなければならない。菩薩を目指す為には、今月の目標を達成して、仏の理想を実現していくのだ。」というような思いです。

現に「○○菩薩制度」(K会所定の実績達成者が対象)という実績評価制度があります。

目標数値は教祖の想いの表れです。いつも厳しい数値です。

ですから、「与える愛の実践」ということを何回も繰り返し刷り込んでいくのです。与える、与える・・・と。これを続けると不思議なことに「愛する」という想いが隠れていきます。 

愛の不在は「裁き」です。

実績が悪いと、与えていない、という裁きを下します。

仏のお役にたっていない、という裁きを下します。

同胞が悩み苦しんでいるのに自分のことで悩むのは奪っている、と裁きます。

自己責任として突き放します。

法を引っ張り出して、裁きを強制します。

 教義は、確かに耳触りの良いものもあるのです。

しかし、実践ができていないのです。特には相手の気持ちを受容するという実践ができていなのです。


  次元構造の弊害

 ここで思うのは、教義でいけば、信者は愛の発展段階を踏んでいないということです。

愛する愛を低次元の愛と定義しているので、愛する愛を実践しようとしないのです。すでにクリアしていると思っているのです。

又、菩提心が有る故に、より高い愛に進んでいこうとします。それが、菩薩行です。仏陀の法を広め人々を救済する修行です。これはかなりの飛躍をしています。いきなり7次元への道に進む愛を実践しても無理ではないでしょうか。

ここでは、本来、人を愛することが愛なのに、仏の法を与えることが愛にすり替っているのです。問題は与える愛の実践にあります。

愛する愛を低次元の愛と位置づけていることの弊害が、明らかに出ているのです。

自分で自分の心に、「私は何次元の愛を実践していこうか、又は目指そうか」と問うてみれば、何と答えが返ってくるかです。「今世は、仏が言うように7次元を目指そう」と答えが返ってくる方は多いでしょう。仏のお役に立つことで7次元を目指せると信じているのです。

 又、他人を見て、あの人は、4次元だの5次元だのと勝手に決め付ける思いが出てくると思います。

また、魔にやられているとか悪霊に憑かれているとか、これも良く聞きました。

 更に、あの人は裏側だの竜宮界だの天狗仙人系などと決め付ける思いが出てくる方もおられます。これもよく聞きました。

 更に、私は仏陀系とかキリスト系とか、あの人は裁き系とか、そういう言葉もよく耳にしました。

 この他、たくさん聞きましたが、相手のことを解ろうともせずに勝手に決め付けているのです。

しかし、経文には、「他人に対して理解をし」と書かれているのです。

不思議なのです。書くことは書いてあるのですが、実践ができていないのです。

これらは、明らかに次元構造と与える愛の教えからくる弊害です。

何が弊害かといえば、人の境地もしらずに、見た目、言動で勝手に判断しているのです。ここに愛の欠如が現れてくるのです。

これは、一つは高慢心によるものです。

高慢心は、与える愛を実践しているという「自称仏」への奉仕の精神からきます。実は「自称仏の教え」を実践している姿なのです。教祖自身が次元による優劣をつけているからです。次元の高低での人や霊人を区分けする教祖の見方が伝染しているのです。

人を愛することより、「法」を与えること(伝道)が高いレベルでの与える愛だという錯覚をしているのです。

だから会員は人を上目線で見下し「人はみな神の子である」という教えを忘れていきます。

気づかない内に、神の子ではなく、物のように人のレベルを決め付けて評価しているのです。

私は以前会社の先輩から言われた事があります。その時はショックで考え込みました。

「お前は、内心では人に対してレベルの高低をつけて選別している。その見方が表れている。」

私自身そのような気は無かったと思っていたのですが、染み付いた思いが外に表れていたのです。

人に対して神の子と見ないということは、自分に対しても神の子の見方ができないのです。

ありのままの自分を受け容れることができません。

相手の心を受け入れようとする心も隠れていきます。

逆に法で裁くようになっていきます。

これでは、「全ての人は仏の子であり、仏性を宿しているので、その仏性を信じよ」と教示しても本当には信じられていないのです。

 そして、洗脳状態になっている自分に気づいた時、洗脳を解除しようとしても、「愛する心」が見出せずに苦しむことになっていきます。いつしか愛の心が隠れてしまっているからです。

 愛する愛を低次元の愛において、他の愛の想いと次元を分けていることが、誤っています。何次元においても、愛は「愛する」ものだからです。

出発点の愛する愛の位置づけで弊害が起こってくるなら、以降の段階的な愛に関しても怪しいでしょう。

 

 

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