2013年5月30日木曜日

(投稿)洗脳解除そして脱会へ・・・幸福の科学の教義、反省の誤り⑤


2)神は目に見えないから良い


神は通常の意識では見えないから良いのです。神が見えないから神を知る為に自分の中の神の心を必死で探求するのです。自分の心に真剣に目を向けるのです。内なる神を探求することこそが、神への正信なのです。

正しい覚者を信じ、その説く法を信じることは、悟りへの道でしょう。それは自分の内なる神の探究と一致してくるはずです。その信仰の対象が間違ったり、転落していた場合には、内なる神の探究とどこpかで一致しなくなるはずです。そして過てる信仰に陥った場合や教祖が転落した場合に、それを盲信した場合には、その信者まで暗雲の中へ引きずり込まれます。

正信は、まず何よりも内なる神の心の探求、内なる神の心を愛し見出す道を歩むことなのです。それが必ず伴わなければならないはずです。

①正見は愛の目、神の慈愛の目で見ること

我欲を愛の想いで昇華させていくとき、我欲は我欲では無くなってきます。愛を実現していく想いや意欲に変化するのです。そして、愛を実現していくプロセスが、愛そのもののプロセスになっていくのです。ここに我欲という欲は消えていくのです。自然に去っていくのです。

千変万化しながら湧き上がる我欲を消すのは不可能です。その原因を一つ一つ探り解明していくのは、至難の業です。だから、K会の教義を実践しようとしても実践できず、悟れないのです。ですから、心を鏡に見立てるように、心の我欲をただの汚れとして認識させる法になっているのです。鏡から汚れを取れば良いと、そうすれば心はきれいになると。

しかし、この方法で心がきれいになったとしても代償を支払うことになるのです。落とし穴が待っているのです。心からは愛が隠れ空洞になり、豊かさは消え、常時我欲に敏感になり、相手の心にも敏感になり、自己処罰感が絶えず、積極性は消え、明るさが薄れ、無感情、無表情になっていきます。

そして、ついにその時がやってきます。霊道現象です。

これは悟りか、これも有る意味、悟りかもしれません。しかし、非常に危険です。魔が待ち構えています。あらかたきれいになったと錯覚している鏡に入り込むのです。きれいになった心だけで、霊道は開いてはいけません。人生が狂ってしまうでしょう。豊かな愛の心で開けないから転落するのです。


欠けている心は、豊かな愛の心です。我欲を取り除くだけの作業をしてきた結果は、単なる霊道です。鏡が冷たいままなのです。悟りの階梯に愛が欠如しているのです。だから、K会は冷たい団体になるのです。

これは、反省のやり方に誤りがあるのです。正見において決定的な誤りがあるのです。

正見は、愛の目、愛の心で他人を見たかどうかです。客観視ではないのです。仏の目、神の目は慈愛の眼差しです。愛の目で見ていこうとする中に我欲は発生しないと思います。愛の目が途切れたところで、我欲が発生していると思います。悪の発生要因は、愛の想いがないところに発生してきます。悪の原因が我欲なら、我欲は愛の想いが無い所に発生してくることになります。

しかして、反省は、相手を愛の目で見ようとしたか否かが出発点になります。これは、誰でもできることだと思います。客観視といえば、非情に難しい。ですが、愛の目ならば誰でもできます。

参考「洗脳解除に役立つ本」


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