2013年5月21日火曜日

<心の探求シリーズ25>洗脳解除のために


恐怖心の克服をするための考察

 



これまで、「自己との対話」を通して、自らにある恐怖心を見つめてきました。恐怖心を克服するには、まず自らの中に潜む恐怖心と向き合うことが大切であると感じています。

 「自己との対話」で感じたことですが、人が持っている恐怖心たるものは、その人それぞれが違った形を持っています。今世においてあるいは過去世において、さまざまな形で身につけたものであるので、その人ぞれぞれが自分の恐怖心の中身を見つめていかないと、本当の意味で恐怖心の克服にはならないということです。
 私自身の場合、過去世においてのトラウマや、今世ではある宗教団体による影響が大きく関わっています。特にその宗教団体から受けた悪影響はかなり大きく、その「洗脳解除」にかなりの時間を費やしました。そのため、カウンセリング手法などによって、自らの心との対峙を行っており、それは今でも続いています。
 そうは言っても、恐怖心の基本的な構造というのは、「自己との対話」を通じて、ある程度共通しているということを感じました。恐怖心というものは人それぞれが、自らの心と対峙して克服していかなければならない問題ですが、自らが持っている恐怖心の正体を見つめるうえで、一つの見解として、以下の考察が一つの材料となればと思います。
人間の最も基本的な本能に、食欲、性欲、睡眠欲があります。この3欲は、人間が自然界において生存していくためになくてはならない欲求です。
これらの欲求自体は「悪」と考えるべきではありません。自然界での生存そのものを否定してしまうからです。
これらの欲求に対しては、理性を働かせて理性の下に統御していかなければなりません。これらの本能は当然動物にも備わっておりますが、人間においては理性を調整の手段として使っていかねばならないのです。
 <考察>
人間を含め、高等動物においては、自然界で身につける本能として、「自己防衛本能」が備わっています。それが「恐怖心」として現れます。

恐怖心」というものは、この自然界で生きていく中において必然的に備わった「本能」といってもよいと思います。動物はこの「本能」によって身を守ります。動物においては、食欲、性欲、睡眠欲に加えて恐怖心(自己防衛本能)が、基本的な4つの本能として働いています。
この「自己防衛本能」が人間においてどう現れるかは、動物よりも複雑となります。「恐怖心」はもちろんのこと、「自己保存欲」や「自己顕示欲」などとなって現れることもあります。
ですが、自己防衛本能から発する一次感情でかつその基本的ベースとなるものは「恐怖心」です。
 基本3本能については、理性を働かせながら、これらの本能が暴走しないように統御していかなければいけないのですが、この「自己防衛本能」についてはどうでしょうか。

「自己防衛本能」についても、この自然界に生きている限り、うまく統御していかなければなりません。
何によってでしょうか。理性によってでしょうか。
この「自己防衛本能」が他の基本3本能と違う点は、精神性を高めることによって乗り越えていけるという点です。
 まず、この「恐怖心」たるものの正体を正しく把握したいと思います。「恐怖心」の正体は、自己防衛本能から来る感情です。
この「恐怖心」は、映し出された「幻影」を本物のように見せる働きをすることにより、必要以上に「恐怖心」自体を拡大させる働きをします。「取り越し苦労」や「恐怖の予言」などによる過剰な恐怖心などが、それにあたります。
 「自己防衛本能」の基本的なスタンスは、「自分を害するもの」にたいする防衛本能です。そこから、「不安感」「怒り」「絶望感」「征服欲」などが生まれてきます。
そして、この「自己防衛本能」がベースとなり自我が発達していきます。

正しい宗教心、愛に満ちた家庭環境など、善なる要因があった場合は、それらの混合で健全な自我が発達していきますので、一概にはいえません。しかし、生まれた環境やその後の環境、国や地域のイデオロギーがこの「恐怖心」「憎しみ」などをベースにしていた場合は、当人にとってはかなりの「毒水」を飲まされた形での自我の形成となってしまいます。
 恐怖心の正体を理解し、恐怖心というものが「自己防衛本能」がベースになっていることを理解したら、次に行うことは、自分の感情の動きをつかむことです。言い換えれば、自分の心の動きを見ることです。
自分はどのように恐怖心を感じるか。または怒りを感じるか。などを客観的に観察することです。この客観的作業をすることによって、自分を客観視できるようになります。

自分の中にある恐怖心を客観的に見ることが、恐怖心を克服する第一歩なので、この作業はとても大切です。

 次に、より高い精神性の獲得です。この精神性が獲得できたら、恐怖心はほぼ克服できたといえます。
 具体的な例をあげると、高度な宗教により高い精神性を獲得した方は、恐怖心というものを乗り越えています。
より高いものに殉ずるという心、この世界を創られた神に対する絶対的信頼、人類を愛し、人類のために身をささげようとする精神性。こうした精神性を強く備えた人に恐怖心は存在しているでしょうか。たとえ存在していたとしても、俗人のそれよりは微小なものではないでしょうか。

 そこに「正しい」宗教の使命があるように思われます。(以上)
 ある宗教団体で、「ユートピア」を叫んでいたところがありましたが、やっていることはそれとは逆で、「恐怖心」を煽って人心を握るようなことをやっております。とても正しい宗教であるとはいえません。宗教としての正しさの基準は、上記に記したところにあるのではないでしょうか。
 より高い精神性の獲得と、恐怖心の克服というものは、おなじベクトル上にあるといえるのかもしれません。


0 件のコメント:

コメントを投稿