2013年5月14日火曜日

<心の探求シリーズ20>自己との対話による価値の探究


 不幸を減らし、幸福を広めること

 

Aさんの心の内なる自己との対話は、さらに深く進むようになりました。

心の内側から伝わる言葉も、すごくわかりやすいものに変化してきました。

これはAさんの思想の深まりとも関係があると思います。

Aさんは金融機関で数字を見て取引先へのアドバイスすることを仕事としていますが、

心の中には思想的な空間をお持ちだったようです。

それがどんどん豊かに育っていく様子がよくわかります。
 

(Aさんからの投稿)


1.幸福への二つの方法について
 
Aさん 今の世の中を悪くしている人を見ると、とても許せない気持ちになります。でもこの感情は本来向かうべき方向ではないように思います。愛とかけ離れているように思います。
ですが、もっと強くなって、相手をつぶすぐらいの勢いでないと幸福が広がらないと思うときもあります。どのようにしたらよいでしょうか。


内なる自己 幸福を広げるには、「不幸となるものを押しとどめる」という方法があります。それはひとつの真理でしょう。気持ちは理解できます。過去世において、そのような不幸をたくさん見たり経験したりして、それ故に、不幸をこの世にはびこらせないという強い信念を持って生まれてきているのです。その正義感が、そういう気持ちにさせているのです。

 不幸を減らすには二つの方法があります。ひとつは、「不幸そのものの発生源を取り除くという方法」です。もう1つは、「幸福そのものを広げていくという方法」です。幸福の力を強く広げていって、不幸の力を弱めていくということです。
 どちらをとれば良いと思いますか。今のあなたに求められているものは、どちらでしょうか。

 あなたの問題の1つは、光を広めていって幸福を広めていくということは、不幸そのものを力ずくで消していくということに比べて、力が弱いと思っていることです。これは外科手術的な考えでもあり、ある意味では、天狗的な考えにつながっていくものです。

 その場合、一時的に不幸を取り除くことができるかもしれない。
 さて、その後はどうするのですか。不幸を(力ずくで)消し去った後の世界は、幸福が広がっている世界と思いますか。

 幸福というものを示さないと、不幸を取り去っただけではだめなのです。人々には、どうしたら幸福になるかという幸福の「ビジョン」を提示する必要があるのです。幸福な世界を示して、そして実践して、創り上げていってはじめて幸福の世界というものが展開していくのです。

 「不幸を消し去る」ということは、まず幸福の世界観、または幸福な世界を確立していって初めて可能となっていくのです。

 ですから、まず「幸福感」というものを広めていく必要があるのです。力で不幸を押しとどめたとしても、また別の形で同じような世界が展開していくでしょう。

 幸福を広めていくということは、決して弱いことではありません。それは確固たる意志を持っている限り、必ず達成されていくものです。

 またイエスの行った伝道、迫害されていたことの「弱さ」を、あなたは心の奥に感じているのです。それは、過去の自分の経験からも、それを強く感じているのです。もっと力が強かったらと・・。権力的にも、財政的にも強かったらと・・、そう感じているのです。

 そうではないはずです。あなたは神の力という視点を見落としているのです。言い方を変えれば、この世的な視点にとらわれすぎているのです。

 神は絶対的な力を持った存在です。神とつながったときの力というものは、この世的な力をはるかに凌駕するものです。

 神の力とは、愛、信じる力、許す力、その他すべてのすべて。

 神の力を「感じ取る」ことです。そのために、いろいろなことを教えたのです。

 何度でも原点に立ち返るのです。まず「感謝からはじめよ」と。

 神への感謝を深めることです。


 Aさん 心に不満があります。なかなか取れません。わかっているのですが・・・。

内なる自己 わかっていないのです。むずかしいことではありません。どのような山の登り口でも、はじめは緩やかです。その登り始めは難しいですか? いきなり崖から始まることはないでしょう。まず正しい道を選ぶことです。迷いをすてることです。

 難しく考えすぎているのです。まず神に心の針を合わせて、神の御心をキャッチしようとしてみてください。それが、「登り口」なのです。

 それが、あなたにとって難しいことですか? 確かに、それすら難しい人もいるでしょう。その場合は、いきなり登り口が崖から始まっているということではないのです。正しい「登り口」が見つからない、ということです。人それぞれ、神の道に向かうには、その人に適した「登り口」があるものです。あなたの場合の「登り口」は、「神の御心に心を合わせる」ということです。その後に感謝というものがあるのです。

 時には、その「登り口」と見えるものが、谷底へ通じる道に続くこともあるでしょう。それは「登り口」とはいいません。ですから正しい「登り口」を探し、そして、人々にも教え示さねばいけないのです。

 なぜ「登り口」という表現をつかったかわかりますか? それは「原点回帰」ということなのです。道に迷ったら、この「登り口」に立ち返ることです。そして「原点回帰」してまたそこから始めることです。そして、その原点を常に忘れてはいけません。「登り口」あっての「頂上」ということを忘れないことです。


 


2.悪を押しとどめる動機について

 Aさん 悪を駆逐し、押しとどめるということは、よいことだと思います。種村さんが現在行っていることは、高潔で正しいことだと思います。自分の思いも良いことだと思うのですが。今言われた内容がいまいち納得できない部分です。何が違うのでしょうか。


内なる自己 悪を駆逐することを、それが悪いことだとは言っていません。ただ、力で駆逐し押し返すということは、それなりの反動を伴うというと言っているのです。心に野心があれば、それは同じ反作用を食らって、後々自滅することになるということです。

 種村さんの場合は、無私の心で行っているので、それとは全く別次元の話です。その場合であっても、「愛」の心を持っていなければなりません。そして、その後どうするかの「幸福のビジョン」を持っていなければならないのです。

 あなたの場合はどうですか? まず、恨みの心があります。過去世において、人々に虐げられたことへの恨みの心があります。人々のために、神のために行っているに、どうして迫害されなければならないのか、ひどい目にあわなければならないのか、というやりきれない思いが心の奥に残っています。一言で言えば、「やられ損」的な感情です。そのため、どうしても攻撃的な感情が出てしまうのです。

 あなたがうまく感謝ができないのも、この部分が大きく影響しています。ですから、イエスが受けた迫害に対しても、この「弱さ」に見える部分に敏感に反応してしまうのです。

 ですから、この辛い思い、迫害されたという経験を悔しさに結びつけるのではなく、「愛」に昇華しなければいけないのです。どうしても、「やられ損」的な感情から抜けられないでいます。果たして、そうなのでしょうか。そうであれば、イエスは最も大きな「やられ損」的な存在ということになります。

 その「やられ損」的感情が、今まで(過去世を含めた)の伝道経験と結びついたときに、「悪を力でねじ伏せる」という考えに走ってしまうのです。そこに愛の思いはありますか? そこを問わなければいけません。その部分が、種村さんの動機の部分と決定的に違うところなのです。

 ですから、いかに「愛」に昇華していくか、「やられ損」的な感情から脱皮していくかということなのです。それは今まで何回も言ったことです。わかるまで何回も言わないといけないのかもしれませんが・・。


Aさん すいません。では、どうすればよいのでしょうか・・。

内なる自己 それも教えたではないですか。ですから、「登り口」に立つことです。原点は、そこにあるのですから。

 神の御心を知れば、おのずと氷解していくでしょう。それほど難しいことではありません。しかし、この部分が、今回の人生の大きな関門であることは間違いありません。より大きく深い「愛」を表現するためにも、どうしても通らねばならないところなのです。

 しかしながら、正しい悟りの境地に向かって、一歩一歩進んでいるといえるでしょう。なかなか一足飛びにはいかないものです。少しずつ自分の殻を取り除きながら進んでいかなければいけないのです。

 命がけの取り組みであることは肝に銘じておくことです。もっと真剣に取り組まなければいけません。ですが、思うように心境が上がらないことを知って、真剣に取り組みはじめているようですね。まあ、良い傾向ではあります。でも、もっと真剣に取り組んでください。心の奥は、自分が思っているより深く広いものです。

 
(「自己との対話」を終えて)

 私の心の奥には、「世の中の不幸を無くしたい」という強い念いがあります。

 過去世での迫害経験の影響もあるのでしょうか、不幸が広がることへの非常な嫌悪感があるようです。ですから、どうしてもイエスを迫害した勢力に対する怒りと、それを許したイエスに対するやりきれない想いがあることがわかりました。

 ただ間違いであったのは、あくまでも「この世的な視点」で感じていたことであったので、そうではなく、「神の視点」から見ることが必要だということでした。それではじめて、イエスの本当の「強さ」を感じることができるということでしょう。

 要は、過去に迫害されたときの「恨み」がまだ成仏できていない、ということなのだろうと思います。これが解消しないうちは、イエスの説かれた「許し」の本当の意味もわからないだろうと思います。

 以前に入信していた宗教団体では、光を広めることと、悪を押しとどめることの大切さの両面を説いておりましたので、こうしたことも影響しているのだろうと感じます。「幸福を実現するために、悪を駆逐する」ということも必要かと思いますが、悪に対する「裁き」の念いというものについては、十分な注意が必要ではないかと思います。

 特に、この宗教団体では、C国の侵略に対する脅威や、KC国の核ミサイルの脅威など、日本の危機に対する警告を、社会啓蒙活動や映画等によって行ってきました。これに関して特に批判するつもりはありませんが、この活動に一時期同調したことによって、自分の心の中に「裁き」の念いを強く植えつける結果となってしまいました。これは、私自身にとっては、かなりの悪影響でした。

 そのため、私の心の中には、相手を限りなく「許し」、「愛して」いこうとする念いと、「悪は絶対にゆるさない。駆逐して消滅すべきだ」という「裁き」の念いが並立しています。
 心の中が前者の念いで満ちていれば非常に穏やかになりますが、一旦後者に心の中が支配されると、押さえきれないほどの怒りがわいてきます。当然心も不安定になり、時として不安と恐怖に満たされることもあります。

「自己との対話」を通じて、後者の影響は徐々に少なくなっていますが、まだ完全に心が調和された状態ではありません。何かの憑依現象(のりうつり)がある可能性もあります。自分の心を客観視してみると、むしろその影響がかなり強いのではないかと感じています。

 この宗教団体に入信していた影響によりその憑依現象が起きていると断定はできませんが、その可能性も頭に入れておいたほうが良いと思っています。

 ただ、深層潜在意識からは「原点回帰」ということを言われました。「神の御心に心を合わせよ」ということが出発点であるということでした。

 たとえその宗教団体がどうであろうとも、また過去世においてどのような経験をしていようとも、その原点を忘れてはならないということでしょう。それが神につながっていく一本の道であろうということであろうと思います。
 
 この点を常に意識しながら、自らの問題と向き合っていこうと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿