2013年4月8日月曜日

ライフサイクルと中年後期


天命を感じるとき


 これは、私がカウンセリングを通して感じることなのですが、50代の後半から60代にかけて、大きな心境の変化が起こりうるのではないかと思います。

 その変化は、「自分が人生で何かをしたい」という能動的自我主導の人生から、「自分は人生からそう命じられてする」という受動的無我なる人生への転換があるように思えるのです。

 この受動というのは、「何か目には見えないが自分を通じて何かをさせようとする大きな意志が働いて、それを受け容れて人生を歩む」という意味での受動です。

 おうおうにして自分がしたいこととは違う、これだけは嫌だと思っていることではあるが、それをせざるを得ないような状況が顕われてくるのです。そして、それを拒絶すると、本当は自分がなしたいことまで逃げていくような予感がするわけです。

 これだけは嫌だと思う心は自我の心であり、その自我が運命の前に屈服し、恭順の意志を示すことが必要になる場面に出くわします。これが自我を捨てる(=無我になる)という修業になっていて、それをなしえたときに、次の大きな人生が開けてくるのではないかと思います。そうして、能動から受動へと心の転換ができると、大きな安心立命が得られます。

 もしこれを拒絶した時は、この安心が得られずに、人生が行き詰まるような閉塞感と空しさが顕われる可能性があるように思います。
 

 心理学的にこの転換のプロセスを考察すると、意識の焦点が、自我である表面意識主体から超越潜在意識主体に移っている感じがします。

 
「大いなる計らい」の前に、「小さな自分の計らい心」を捨てざるを得ないような出来事が、不思議と起きてくるのです。そして「小さな自分の計らい心」を捨てたときに、自ずから生きる道が示されるのです。これはいうなれば自然(じねん)の道です。

 この道は、超越潜在意識の意志を受けて歩む道であり、いわば大我を生きるということに相当すると思います。ですからこのプロセスは、もし仏教的に表現すると、「自我を捨て、無我になり、大我に生きる」という言い方になると思います。

 これを別の言葉で言うと、天命を知って、天命に生きるということです。

 ここで、東洋におけるライフサイクルの理想であった、孔子の言葉が浮かんできます。孔子の言葉として、「論語」の為政第ニの4にはこう書かれています。

吾れ十有五にして学に志す。

 三十にして立つ。

 四十にして惑わず。

 五十にして天命を知る

 六十にして耳従う。

 七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を超えず。

 
 私は「四十にして迷う」だったので、この説とは程遠いと思ってきたのですが、五十代で天命を感じだしたので、孔子が参考になる気がしてきました。

 自分が何かをするという自我主導の能動的意志の場合は「立つ」という言葉がふさわしい気がします。これは三十代の意識でしょう。

 しかし五十代というのは、大きな天の意志を感じ取ってそれに従うという意味で「天命を知る」ということがあると思えるのです。

 天命を知るというのは、能動から受動へと、意識の在り方が切り替わっています。
 

 天命とは心理学的には超越潜在意識から来る意志だと思います。

 それを表面意識である自我が受け入れて、従うことが必要で、ここでしばしば自我が葛藤を起こします。自我が自分を捨てることへの恐怖から、ものすごい抵抗をするのです。それはプライドを捨てるという葛藤であったり、責任ある立場を受け容れるという葛藤であったり、さまざまな形でその人なりの葛藤が出てきます。

 ここが一つの大きな試練だと思います。これを乗り終えるかどうかで、がらりとその後の人生が変わるのではないでしょうか。人生の質的な転換が、ここで行われると思うのです。

 要は、自分の小さな意思を捨てざるを得ない局面が出てきて、小さな自我意識にしがみつくと人生がふさがっていくかもしれない。その代わり、自我を捨て「天命」を受け容れたときに、非常に強く共時性が働き始め、人生が大きく車輪を回すように展開していく可能性がある。そういう岐路が、この年代にはある気がしています。


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