2013年4月2日火曜日

読者との対話


愛と悟りを考える

 
(紹介)

読者のAさんが私のブログへのコメントを送ってくださいました。私はそのコメントを掲載して、それへの返信も書かせていただき、それをきっかけとして、Aさんと何度かメールでやり取りをするようになりました。その結果、ここに紹介する対話が生まれました。Aさんの指摘には、愛と悟りに関する非常に興味深い論点があります。皆様のご参考になると思い、紹介させていただきます。

 
(対話)

恐怖心

A  「洗脳解除のために」(その4)(その5)への私のコメントに対して、素晴らしいお返事をいただき、ありがとう御座います。これは生きる勇気、力が湧いてきます。

 私はK会洗脳前にも職を転々としています。洗脳後も危機的です。現実面で、人に騙されたり、裏切られ陥れられたり、迫害されたりした経験が恐怖心となって心にまだ残っているのです。その残存する心がそういうものを引き寄せてくるのです。今もそうです。心が完全に復活していないのです。

 できることなら脱会者にはこんな思いはさせたくはないですね。その上に経済苦になっている方が多いと思いますから。しかし、くぐらなければならない道なのですね。

でも現実にひどい実体験を重ねてきたことからくる恐怖心を取り除くにはどうすればいいのでしょうね。

洗脳から脱して脱会しても教義や迫害の経験によって植え付けられてきた恐怖心が残っております。夜イエス様に祈る時は、スムーズでイエス様が愛の光を与えて下さいますし、私の心が泣いている時は、イエス様も涙しておられるのが伝わってきます。

しかし、表面意識を使う現実になれば、恐怖心がやってきます。これは、自己保身からです。自分では自己保身がでていると分かっているのですが。職場にも平気で人を騙したり、新人を影で悪者にして虐めたりします。私もそういう状態の環境でいます。そこに勤める方の紹介を受けて入ったのですが、出入りが激しく新人が辞めていく職場だったのです。

特に長い間活動信者でおられて、現在中高年になっている方は、就職難、経済苦、やっとの思いで就職しても不遇な環境にあって、その上に恐怖心が起こってきますから、私同様に苦しんでおられると思います。霊的ならば余計に、ですよね。

種村 私は世間から拒絶される恐怖、いままでの仲間から拒絶される苦しみ、経済苦をはじめ未来への不安、生きていくことの不安、特に老後への不安と恐怖、今世が失敗の人生だったのではないかという絶望。また現実に勤務する会社が倒産する恐怖。そうした感情に苦しんできました。

それでも「自分はこうして生きている。野垂れ死にするわけでもなく、孤独死するわけでもなく、自分は生きている。これは生きることを許されて、そうして生きているということではないのだろうか。何をそんなに恐怖する必要があるのだろうか。今まで、それでも生きてきた。在ることを許されてきた。それなら生きている限りは、許されてあらしめられるのではないか。生かされているのではないだろうか。」そう考えました。

未来への取り越し苦労をやめて、今許されて生かれていることに、まず目を向けるようになりました。「生かされていることへの感謝」という心境まではいかずとも、生きていることがありがたいという感覚が芽生えてきました。

「ここで何かを学べと言われているのだ。そうに違いない。私が今ここで学ぶべきことは何だろうか。」そう考えることで、教訓を得る場としての人生舞台であると見なすようになりました。

この視点を持つことで、不安や恐怖心の中にずっぽりと入って、きりきり舞させられることから抜けれるようになりました。

生活をストイックにするようになりました、生活の中に奉仕を入れるようにしました。 奉仕の中で、「愛は謙虚さの中にある」という言葉を味わいました。謙虚さを味わっていく中で、愛というものがしみじみと味わえる感じがしました。

そうした心境が続いていた時に、道を歩いていて突然イメージがわきました。太陽とその光線のイメージです。ユング心理学的に表現すると、心の深いところから湧いて出た、私の元型体験だったと思います。太陽は私の神でしょう。私は無数に出る光線の一つです。光線と太陽は一体でありながら別物、別ものでありながら一体です。私は神から分かれた神の子であり、無数の神の子の一人であり、謙虚にして自信に満ちています。無数の中に一つという謙虚さと、神の一部という自信です。

 私がK会との対決を始めたときもそうでした。私は「自分が真実に生きるならば、後悔しない」と決意しました。真実を貫こうとする自分を支えて守ってくださる目に見えない存在の臨在を感じてきました。抽象的で申し訳ないのですが、結局そうした体験があって、恐怖心を乗り越えてこれたと思います。あなたもそういう体験を積んでいかれると思います。

それと、あなたの場合は、個人的潜在意識にある抑圧や深層潜在意識にある心の傷にも原因がある気がします。それをカウンセリングで吐出し、向き合って洞察してゆかれると、きっと消えていくと思います。そういうものが癒されていくと、自分の深層潜在意識や超越潜在意識がさらに身近に感じると思います。

そこまでいかなくても、恐怖心というのは、恐怖しているものを真正面から向き合うと、力が弱まっていくという性質を持っています。恐怖を真正面から見つめようとされるだけでも、恐怖心の力は弱まりますので、ぜひ取り組まれて見てください。

 A こうしたテーマでの種村さん自身の体験は、私にとってももちろんですが、ほかの人も関心がある部分ではないかと思います。そして参考になる部分だと思います。 

悟りを考える

種村 洗脳を解除するうえで、経済的な試練をはじめ様々な危機的状況は、必ずしもマイナスではありません。洗脳をリセットしやすくなるからです。

そうした試練の中で、それでも自分が真実を求め、永遠なるものを求め続けるのかどうか、それが見られており、それを試されていると思います。見てくださっている方は必ずいます。自分のうちにいらっしゃいます。それを発見する時に、本当の意味で自分を愛することができると思います。

その内なる神を何と呼ばれても結構です。仏性と言っても、内なるキリストと言っても、根本神と言っても、あるいは心理学的に超越潜在意識と言っても構わないと思います。要は、それに自分が触れることが大切です。

A こういう「悟りの段階」があるのではないでしょうか。例えば、洗脳を解く時「の内なる神を愛する心」が第一段階で、更に「内なる神への愛を高め天上界の神と繋がる」のが第2段階ですね。

更に、「天上の神と一体になる」のが第3段階(隣人を差別無く愛する愛、生きながら3次元を超えている段階)ですね。

「一体となった神の心、国、国民、人類、大衆を愛する力で人をすなどる」のが第4段階ですね。というような勝手な段階を感じました。

種村 面白い観点ですね。あなたはどこまでも愛と一つになった悟りを求めていらっしゃる。それがあなたの特徴ですね。 とても魅力的なご説明だと思います。

A K会でも悟りは追い求めてきましたが、これからが本当の悟りですね。

実は私は、一回転落しております。教祖がいうように確かに、霊道を開く段階になると、丸い後光がでます。「人の思いが手に取るようにわかる」のは本当ですよね。

 とにかく悪魔の攻撃がものすごかったのを覚えています。脅威でした。

一度、私が体験してきた悪魔の攻撃を投稿しても良いかもしれませんね。閲覧は種村様の許可ということで。危険ですからね。

種村 あなたは一度「闇の海」航海されて、そこから生還されてきたのですね。

A でも教祖は転落していますので、あれは正しい悟りではなかったのかもしれません。ですから、私も転落しています。

何かが違う。そう思って振り返ってみると、やはり「内なる神」を愛する思いが不足していたのだと思います。

愛する愛4次元の愛(本能の愛)で教えられていますから、これは次元が低いと思ってしまって、それを拒絶する心があったのだと思います。愛する愛を拒絶することは、愛の拒絶です。結局、魔の標的になりました。

種村 悟りを求めるつもりが、家族や縁ある人々への愛が欠落していくと、落とし穴が出てきますよね。また自分自身を反省で裁いてしまって、愛せないことも多いですよね。

A そうです。そのとおりです。しかし、イエス様のご指導で、少しは解ってきたと思います。

「真の自分」を愛する愛が如何に大切かをです。

 したがってK会のいうアラハンの解釈が、反省中心だけの解釈は間違いだと思います。

間違った単に霊道を開くだけの悟りへと導くため、愛する愛が足らないから、魔に毒される。従がって結果、教祖は毒されている。

思想の欠陥と教祖の実態が一致しています。よって、愛の発展段階説は間違っているといえるでしょう。

種村 あなたはどのようなものを悟りだとお考えなのですか。

A 悟りはもっと豊かな心の中にあるように思います。

愛する愛の拡大していく姿が正しいような気がします。

「許す愛」とか「存在の愛」とかいう解釈は、抑圧的法であり、意識して実践しようとすれば心を抑圧し、逆に愛が不足してきます。

しかし、「愛する愛」になれば、自然に愛の豊かさが大きくなって、結果、許しているというような感じになると思います。あの難しい、「与える愛」と同じです。

仏性を信じるというのではなく、愛するが正しいと思います。信じさせようとする想いが無理をします。信じようとしても信じられないはずです。

反省中心の教えは、心の曇りを取り除いていけば、潜在意識と同通するものです。例えていうと、曇った鏡をきれいに拭いていけば、自分の姿や部屋の中ががくっきりと映し出されます。これが単なる霊道現象です。でもその鏡に触れると、冷たさを感じるのです。この冷たさが問題なのです。これが愛の欠如です。

愛は愛するから愛になります。「内なる神」を愛するから、我欲ではなく真の自分を愛せるのです。その時に仏性を確信していきます。

種村 自分の仏性を信じるのではなく、本当の自分を愛するのが正しいと。

A K会の教えは、内なる神を自分の心と隔絶していく教えだと思います。いわば洗脳の法です。内なる神の代わりに、仏が住みます。仏性を信じよといっても、見出していないものをどうして信じることができるでしょう。愛するから見出せるのです。信じようとするから見出せるのではないのです。野菜スープをみてこういう味を含んでいるから、信じろといっても無理ですよね。食べるから信じられるのです。神は目に見えないものを無条件に信じよとは言われてはいないですね。ですから自分の中に神の心を与えて下さっているのだと思うのです。

しかし、K会は、無条件に何も考えずに仏を信じろといいます。仏性に対しても同じです。野菜スープを自分が納得もいかずにこういう味だと信じろといっているのです。そうすれば、納得いかない心を殺して、その思いを捨ててまで自分に思い込ませるしかないのです。自分の心を内なる神の心と隔絶させて思い込ませ、自分で自分に刷り込ませます。これが、K会の洗脳のしくみです。思考停止の状態からの刷り込みです。日々の御本尊向っての祈りは危険です。

特に降魔経、主への祈りなどは危険だと思います。恐怖と安堵です。仏に帰依すれば、保証ありです。なおかつ信仰上の我欲を引き出します。

したがって、洗脳が頭で解けてくると、頭と刷り込んだ潜在意識が極端に相反し、錯乱します。そして、精神的な障害を起してしまうのです。又、そうなると更に悪魔に入られ放題になります。

脱会後は、自分の心が空洞化して心が不在になります。自分の存在価値を見出せず、非情に危険な状態になりました。

しかも日々に魔が襲ってきて離れず自分を苦しめます。常に幻聴のようなもので、我欲失望を拡大させられます。

そうして本来の自分の心、愛の心が隠れてしまっていますから、自分自身の事が見出せなくなって、精神障害を起します。

自分は生きていても全く価値の無い人間だという思いしかないのです。内なる神の心の尊さが失われているのです

その代わりに、仏が摩り替って、入り込んでしまっているのです。この正体はです。本来の心ではなく自分の外にいる何者かが自分なのです。

K会の根本教義は、一見正しいように見えますが、悪魔の教えです。悪魔は相当賢いと思います。ほんの少しのすり替えです。

 これがK会で学んで実践すれば、悟りは開けず、霊道は開け、魔に毒される理由です。

つまり、教祖はどちらかといえば、裁き系の霊能力型になります。だから愛がないのです。

愛の神ならば、絶対に内なる神を愛する愛から始まり、隣人を愛する愛を説くでしょう。

与える愛は、無私であり、かなりレベルが高い段階のものでしょう。小さい努力レベルで行なうと、抑圧を繰り返していきます。その結果、魔の標的になります。

この高いレベルの飛躍した「与える愛」を実践させれば、段階を踏んでいない為、自分を抑圧し、その時々の心の方向性が両極端になってしまいます。

その結果、自己犠牲になったり、教導や空心の怒りと称して、実際はただの裁きを下したりします。何故なら、「与える愛」のプロセスを踏んでいないから、どう思いどう行動すれば良いのか解らないのです。その結果、中道ではなく、両極端な選択をしてしまうのです。例えばF事件もそうでしょうね。説いている教祖自身が分かっていないと思います。

愛が育つプロセスを説き、結果与えているという方向が好ましいと思います。「与える」という心には、「与える」選別が生まれるのです。

K会はそれを、智慧をもって与えよと教えますが、それは最初からよほど高い悟りを得ていないとできないことなのです。

だから万人が悟っていける道ではなく、間違った段階を踏んでいく自己を抑圧していく法になっているのです。架空の自分を演じようとする。

当然、その言動によって、対人関係の不調和や無理なお布施をするなど、現実生活も崩れていきます。心は幻想の中を生きているのですね。

だから、幻想を生きる心と現実が一致せず、自己に不調和が出ますが、100%の信仰ではないからといって、更に抑圧へと誘導していくのです。

そこから逃れる為には、お決まりの祈願と研修などです。高額集金ですよね。しかも本来の心はどんどん隠れていくのです。

自分を愛することの大切さ

種村 内なる神を愛することと、隣人を愛することを、あなたは「愛する愛」ととらえていらっしゃるのですね。そこからスタートしないと、愛が豊かにそだっていかないということですね。

A 愛の発展段階は破れました。種村ブログのお陰です。ようやくはっきりと見破れました。

四正道も間違っているでしょう。愛は正しいけれど、知がなければ悟れないかといえば、そうではないでしょう。

愛の発展ですとか、さまざまな発展は、自己と神において、なされるものだと思います。

経済と法律と神は融合しにくいからです。それが神の心に叶うかどうかです。

発展よりむしろ、救いではないでしょうか。救いにおける発展=神の救い、しかし、それは地上の意味を深く知る必要がこれからありますね。

例えば、神は全体として、物質界の地上のユートピアを望まれているかどうかです。

種村 私は今この地上は新陳代謝をしようとしていると思います。宇宙的な霊的なエネルギーが流れ込んできて、それを感じる人が急速に増えていると思います。それに付随する現象として、花粉症とか化学物質に過敏になってアレルギー反応を起こす人とかが、ものすごい勢いで増えていると思うのです。パワーストーンのエネルギーを感じる人が増えたのも、これはある意味で霊的な感覚が活性化しているのだと思います。これは新しい事態だと思います。その意味を深く考えないと、現代の問題に対処できない気がしています。

本当の自分を愛する、そして隣人を愛するという愛のエネルギーの流れは、自分の心のうちから流れてくる神の愛のエネルギーを感じとり、受け容れ、それを愛するところからスタートするのかもしれません。実際に感じとり、経験することが大切だと思います。

A なるほど。これは奥が深い認識だと思います。言われてみれば、確かにそう思えますね。教祖が霊性を告げ知らせると言っていたのは、それが使命として心にあったということでしょうね。霊性が広まってこそ、経済、法律等社会の発展と神は確かに融合していきますね。霊性は正しかったのですね。

しかし、知で頼って創った論理的な法は、論理的で在るが故、納得させる面はあるけれど、大きな欠陥があったということですね。愛の欠如です。つまり教祖はあまり悟っていないということになりますね。愛を知らないから。だから、霊性を広めることを忘れ、我欲に走って失敗したのでしょう。

宗教団体にするべきではなかったし、根本教義は不要だったように思います。

ただ霊性を知らせれば良かったのです。それ以上はいらなかったということでしょう。しかも、本当は霊性に目覚めて、これから活躍するようになっていた菩薩の芽をことごとく摘んでしまった罪は重いですよね。それだけならいいのですが、現実面でも敗退させてしまっている。

ただ霊性を告げ知らせ、如来、菩薩を霊性に目覚めさせる使命であったのに、我欲に破れ分を超えて、悟りの法を説いてしまった(推測ですが)。

初期の霊言、日蓮様の警告を無視した結果、これで、様々な計画が狂い、人々を魔の餌食にしていった。これは、たいへんなことですよね。

これもみごとに、使命の誤認(あくまでも推測)とK会の内的現象が一致していますね。悟りと救済の団体が恐怖の霊体質と魔の霊障のようになってしまいますから。

 でもまだ人生は終わってはいません。これからは、本当の正しい悟りに向けて頑張っていこうと思います。

 ありがとうございました。

 種村 こちらこそ、貴重なご意見を教えていただき、ありがとうございました。


2 件のコメント:

  1. 大川センセイはヤハウェにも似たワガママさがあって
    不思議ですね。
    ネットではヤハウェこそものすごい暴虐をしている、
    信じないものを皆殺しにしています。
    ユダヤ教徒やキリスト教徒はヤハウェを真似して
    戦争を起こしているとか。
    幸福の科学もすぐに裁判や実力に出る。

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    1. コメントをいただきありがとうございました。
      ヤハウェと同一の種族だからこそ、大川センセイも行動パターンが同じなのだと思います。
      高橋信次さんと仲が悪いのは、縄張り争いなのではないでしょうか。
      同一種族の場合、往々にして激しい縄張り争いをしますから。
      そう考えると、そういう行動をしている理由がよくわかると思います。

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