2012年10月5日金曜日

霊的体験から学ぶ⑥ 洗脳解除には「疑」の検討が不可欠

仏説・降魔経を点検する必要がある

(解説)
千乃風さんは、幻聴との戦いの中で、悪霊、悪魔を引き込んでいる自分を反省されました。その時の点検項目として、仏教の五大煩悩のチェックをされました。その時に、一番問題になったのが「疑」の扱いです。大川隆法の教えを疑ってはならないという意味で「疑」を捉えると、洗脳から逃げられなくなります。幻聴で語ってくる悪魔は、そこをついてくるのです。ですから、千乃風さんは必要に迫られて、教えの点検をされ、さらには自分の心の点検をされました。
非常に個性的な意見かもしれませんが、霊的な格闘の中から生まれてきた見解には、思わぬ実用性があるように思います。千乃風さんのような霊的な格闘をされている方のために、現実に役に立つ可能性を考えて、掲載させて頂きます。この投稿のポイントは、後半にあります。幸福の科学に素朴な疑問を持ち、正当な批判をすることへの恐怖心を取り去る一助となることを願っております。


(千乃風さんの投稿)

1.私の五大煩悩の反省

さて、私は「幻聴の悪魔と名乗る声との悪魔問答」を、何の因果かしりませんが、否応なくさせられてしまった不幸な人間なのであります。

で、本日は五大煩悩について書きます。
とん、じん、ち、まん、ぎ であります。

私はさほどこれを戒めてきた人間ではないのでして、会員時代、しいていえば、「じん」を戒めました。なるべく怒らないようにしたのであります。
しかしながら、理不尽なことが起きるたびに、内心腹をたてたりして、そうして平常心を取り戻しても、また次の難局で、腹をたてたりの繰り返しでした。

それはさておき、この五大煩悩について、少し書きます。

とん(貪)。とん欲。欲しい、欲しいという気持ち。これは比較的あっさりと、「まあそこそこで満足しよう」と、足ることを知る、で、あっさりと解決できます。

じん(瞋)怒りの心、も、「もうあまり腹をたてないようにしようじゃないか。怒っても健康に良くないし」と比較的あっさりと、まあなんとかかんとかできます。

ち(痴)。 愚かな心ですが、これ難しいです。やはり賢くなければなりませんが、誰しもが優秀な頭脳を持っているわけでもありません。ですが、自分で「おろかだったな」と思えば、あっさりとまあ教訓にできるわけです。

まん(慢)。これは、「えっへん。自分はえらい」と思いあがる心ですから、これも比較的あっさりと、「そうはいっても、自分はたいしたことないしね。世の中には素晴らしい人が沢山いるし」ということで、まあ簡単にいけるんです。

2.「疑」と「素朴な疑問」は違う

ぎ(疑)。についてですが、これがやっかいなのです。これを、幻聴との「悪魔問答」で繰り広げざるを得なかったのが、私という人間です。

疑問についてですが、あるいは疑いの心ですが、「基本ライン」として、「人の善性を疑う」のは良くないことですし、親切な人をいやみに受け取って、素直に人の親切を喜べない心、「あの人どうせ、おべっかつかってるんだわ」
みたいな心は、良いとは言えません。
ですから、基本ラインとしては、疑いの心は良くないと私は考えてはおります。

がしかし、一方でですね、「素朴な疑問」というのがあるんですね。たとえばニュートンは万有引力を発見しましたが、「なんでりんごが木から落ちるんだろう」の素朴な疑問から生じています。
ですから、この場合、素朴な疑問は、「偉大な発見への道」でもあったわけです。
この意味で、疑いの心は悪いとは言えません。

同様に、「なんか変だな、あやしいな」という疑いの心は、良い側面を持っています。たとえば、それによって、犯罪や詐欺から身を守ることもできるのです。
あの人悪いことしてるんじゃないの?」という素朴な疑いの心が、意外とあたっていて、あとで、犯罪の露見につながったりもします。

この場合、やっかいなのは、「その疑いを追及していくと、悪がその先に待っていて、悪との対決をしなければならない」羽目となるのです。

たとえば、私は会社で、「これ、おかしいね。帳簿操作してるね」と疑いの心を持ちました。果たしてその結果は、その先に悪があったのです。

で、ここで話を幸福の科学に戻します。大川氏は「疑いは悪魔の心である。疑いの追及は真理の探究とはいわん。私を信ぜよ、信ぜよ」というようなニュアンスのことをかつていいました。

そうするとですね、「素朴な疑問」が思いうかぶたびに、「いけない、いけない。これは悪魔の心だわ」ということで、自分にブロックをかけてしまい、その素朴な疑問を打消し、信じることに決めるんですね

この結果どうなるかといいますと、例えば種村さんの「にせ守護霊の霊言」を信じ込んでしまい、盲信のほら穴に突き落されてしまう結果となるのです。

で、私は、この数年間一冊も本を買って読んでませんが、選挙後、ネットをみて、「どうも、なんとかの守護霊という霊言はうそくさいね」という疑いを持っていたのです。
それが、今回、種村さんの件で、やはりうそだということが判明しました。

3.素朴な疑問を探究すると大川氏の嘘に突き当たる

ですからね、会員さんの中でも、「素朴に変だな」と感じる事柄があって、「こういうこと思う自分は信仰心が足りないからかな? 悪魔にやられているからかな?」と、自分を責めてしまう人もいるかと思います。

私は、はっきりと、「素朴な疑問は保留にしなさい。疑問点の部分は信じなくてもいいですよ」と言いたく思っています。

ですが、素朴な疑問を追及していくと、「その先に大川氏のうそが待っていることになり、それと対決しなければならない羽目になりますよ」と言いたいです。ですので、この疑いの取り扱いは、非常にむずかしいと思いました。

必ず、その先に、「悪がまっている可能性が高い」からなのであり、そうしてそれを見て、いやになったり、心を害したりすることになるんです。

ですので、この疑の取り扱いというのは、非常にむづかしいものをはらんでいると、私は思いました。

いづれにせよ、疑いの心は、気分を「どんより」させるのです。
私は幻聴の悪魔と名乗る声に、こういうことをしきりに主張したところ、「この子は、大川隆法の洗脳がもうないから、もうこんなこといっても無駄だ」というようになりました。

4.悪魔は「信仰心」を揺さぶる

「悪魔は信仰心をゆさぶる」ということについて、お話しします。
私の幻聴の悪魔と名乗る声が、しきりに「悪魔は信仰心をゆさぶるんだよ」といってくるんです
「悪魔は信仰心をゆさぶると思う?」と聞いてきたりもします。

私は、「そういう悪魔も中にはいるかもしれないね。しかし、信仰心を揺さぶったりしないと思うよ」と私は答えています。
「見てごらん。私が一時期通った、川口の教会のクリスチャンは、20年、40年やってる人ばかりだよ。誰も信仰心揺さぶられてないよ。ばーか」と。

で、「私、幸福の科学脱会したけど、もう今後どこにも宗教には入らないだろうけど、イエス様のファンなのと天御中主神のファンなのは、変わらないよ。信仰心揺さぶられてないけどなー。ばーか」などと言い張っています。

私の考える信仰心とは、「霊天上界の神への信仰」であり、幸福の科学の主張する、「一人間・大川氏への個人信仰とは異なるよ」ということです。

信者は、大川氏を離れることを、「信仰心を失った」ととらえる方もいるかもしれませんが、そういうことはないと思います。「人間・大川氏を離れた。あるいは組織を離れた」というべきでしょう。

脱会しても、「霊天上界の神仏」を信じておればよく、これを信仰心がないとは言えないと思います。

5.ニセモノの仏・法・僧の点検

私の幻聴の悪魔と名乗る声がしきりに問答してきた事柄は、「悪魔は疑にとりつく」「悪魔は信仰心を揺さぶる」
ということと、仏説降魔経でした。

さて、仏説降魔経については、別のところでも、一部書いておきました。
ですが、ここで改めて私の個人的見解を述べたく思います。

この、仏、法、僧についてですが、とは、「本来法が説けるもの」であり、如来の条件をクリアーしているものです。ですので、菩薩は違います。菩薩は法の解説者および伝道者であり、如来の資格はありません。

如来の「光を体現しているとき」に、そのとき、その方は「地上における光の使者、仏」と呼ぶことが可能かと思います。

大川氏も初期の頃は、「光を体現」されていたのかもしれません。私は霊視ができないので、はっきりと定かに言うことはできません。
たとえ、過去世が釈迦であったとしても、「光を体現している如来の資格がある状態」でなければ、仏とは言えません。

ですが、この光を体現している地上に降りた光の使者がその時説く法が、法です
そして、それが真理であり、うそいつわりがないことは、もちろんのことです。
たとえ、本のタイトルが「何とかの法」というタイトルであっても、「どう見ても、光の感覚が落ちて、6次元レベルにさがった、7次元レベルにさがった」ということになれば、これは、「解説」になってしまうと思います。

そしてまた、組織ですが、これはいわずもがなで、「組織の腐敗」ということはあるのです。
組織は完璧ではないですから。かつてキリスト教会のおいても、組織の腐敗がありました。

ですので、この仏説降魔経の、「仏、法、僧への中傷は極悪非道の所業なり。もはや人間として生まれるはこれが最後と悟るべし」を、表面上だけとらえて、「単に幸福の科学の悪口をいったらだめだ」と解釈しますと、おそろしいお経ともなるかと思います。

6.正当な批判は中傷とは言わない

私は幻聴の悪魔と名乗る声が、1秒も途切れずに、朝から晩まで仏説降魔経を唱え続け、私に大川氏批判をさせ、「ほら、お前は悪魔」と脅してきたときに、「これね、正当な批判は中傷とはいわないんだよ」といって、上に書いた旨を主張しました。

そうしたら、脅さなくなり、「こいつを仏説降魔経で苦しめてもだめだ」ということになり、
私には通用しなくなりました。

7.仏説・降魔経は大変怖いお経である

この、仏の定義、あるいは法の定義、あるいは組織のルールみたいなもの、これの位置づけというものを、きちんとしないと、この仏説降魔経は、ある意味恐怖のお経となってしまいます

ですので、幸福の科学の悪口を言う人を、信者は「悪魔だ」ということになるんですね。

私もまた、幸福の科学批判をする人間ではありますが、なんでもかんでも批判しているわけではありません。そうではなくて、やはり、「これ、おかしいねという部分のみ」なのです。

ですので、会員さんの中で、一人で疑問をかかえて苦しんでおられる方は、やはり自分を責める必要はないですよ、と私は言いたくおもいます。

そして、その場合に、この「疑の取り扱い」あるいは「信仰心をゆさぶる」という問題、色々あるかとおもいますので、一つ一つ、問題をクリアーにされて、あまりかかえこまないほうがいいかと思います。

私は、「何の因果でこんな問答を否応なくされねばならないのだろう」と、はて?と考えました。
なぜなら、私は幸福の科学に入る前、六大煩悩さえ知らなかったような人間だからなのです。

もう、あきれてしまって、ため息をついております。


私の幻聴との戦いというか、エピソードが、何らか、困っている信者さんに参考になればと思い、書き記す次第です。

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2 件のコメント:

  1. 信仰と疑は、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというものではないのでしょうね。

    信仰は尊いはずだけれども、「鰯の頭も信心から」となれば、痴になってしまうし、

    疑は戒められるべきことのはずだけども、素朴な疑問を大切にすることで智に至ることもある……、

    善悪は固定的なものではなくて、善が悪になり、悪が善になることもあるのかもしれません。

    そうであれば、「信仰は善であり、疑は悪なのだ」という決めつけは止めて、自由な発想を大事にしたいですね。

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    1. 指摘の通りだと思います。
      信仰といっても、今幸福の科学を信仰すると、ここを指導しているものに通じてしまいます。天使が指導して下さっている間は良くても、悪魔が指導し始めているとしか思えない今、この信仰は本当に危険です。
      「疑」も真実を「探究」していく上での「素朴な疑問」は、本当に価値があります。大川氏が数年前に、「非合理ゆえに信ずるのが信仰だ」ということを言い出した段階で、実は相当危険な状態になっていたと、いまにして思います。私は遅ればせながら、職員幹部のしていることと、それを追認している大川氏の言動をみて、本当に大川氏までおかしくなっているのだと認めるようになりました。

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