2012年10月13日土曜日

大川隆法氏の著作物を読むことによる弊害

考えなくなり、他の本が読めなくなるという弊害

(紹介)

大川隆法氏の本を読み続けると、どうなるのかということを、ご自分の読書体験を通じで書いてくださった投稿です。大川氏の著作を数多く読まれてことがある方は、ご自分の読書体験を振り返ると、意外な発見があるかもしれません。

(投稿)

私は、お布施をするほどの金銭的余裕が無く、
又、伝道する勇気もなかった為、信者だった頃は、
「本を読んで、教義を理解することに徹しよう!」と考えました。
これも大事な信者としての活動の一つだと思ったからです。
なので、時間がある時は、出来るだけ大川氏の著作物を読むようにしていました。
ですが、大川氏の書いた書籍を読むにつれて、
他の本を受け付けなくなりそうになっていました。
特に、一番危なかったのが、「小説・物語系」です。
大川氏の本を読んでいる傍ら、
「小説・物語系」を読もうとすると、最初の数ページを読んで
リタイアしてしまう事がしばしばありました。
当時はその原因が分からなかったのですが、
今、振り返って、自分なりに分析した結果、見えてきたことがあります。
それは、大川氏の著作物と、小説とは、読み方を大きく変えないといけない
ということです。
大川氏の著作物を読み慣れた人にとって、小説系を読むのは
とても「大変な作業」なのです。
でもこの「大変な作業」というものは、実は、本当は本を読むという行為に於いて、
一番「楽しい作業」なんですね。
読書における醍醐味を奪ってしまう、大川氏の本って恐ろしい
そう私は思います。
ここから述べる事は、私の分析結果なので、
全ての人にあてはまるというわけではありません。
また、正しい分析というわけでもないと思います。
あくまで、私の個人的見解です。
大川氏の本というのは、最近のものはほとんど、
法話として話したものを本にまとめています。
いわゆる「話し言葉」を文章化しているだけだと思います。
「話し言葉」は、平易な言葉である事が多いです。
自分の言いたいことを簡潔にまとめながら、
聞き手に、できるだけ負担をかけない事が大事なので、
自然と分かりやすい言葉を選ぶことになります。
その「分かりやすい言葉」を並べたのが、大川氏の本です。
平易な言葉を並べただけの文章は、読むのに時間はかかりません。
読み手の負担もほとんどありません。
こう書くと、大川氏の本は「読みやすい」ということになり、
一見、良さそうに思えますが、ここに大きな落とし穴があります。
それは、「読みやすい大川氏の本」を読んでいくうちに、
「本を読む」という行為にとって、一番大事で一番の醍醐味である
「考える」ということが欠落してしまう危険性があるという事です

大川氏の本を読んでいくうちに、一時的に「苦手」になってしまった
「小説・物語系」ですが、この「小説・物語系」を読む時の事を考えてみます。
まず、「書き言葉」であるのが原則なので、平易な言葉の中に、
話し言葉としてはあまり使わない言葉や言い回しが混じっています。
なので、ある程度の読解力が必要です。
又、内容に関しても、登場人物の名前を覚えたり、
その登場人物同士の人間関係を理解したり、
(人物相関図を頭の中で構築しないといけませんね)
登場人物一人一人の特徴を考えなくてはなりません。
又、書かれてある文章の行間から、登場人物の気持ちや、
作者が伝えたかったことを読み取らなくてはなりません。
非常に複雑な作業を必要とするのが「小説・物語系」です。
それに対して、「読みやすい」大川氏の本は、ほぼ大川氏の独白です。
最近の「霊言」といわれるものには、何人かの「登場人物」が存在しますが、
それらの特徴は、大川氏の自己投影及び妄想ばかりなので、
パターン化されています。
よって登場人物の「プロフィール」について、
あまり深く考える必要はありません。人物相関図もありません(笑)!
又、大川氏が書籍を通して伝えたいことというのは、
ほぼ100%「私を信じてついてきなさい!」の一点張りで、実に単純です。

これらの事から、大川氏の本を読む時には、何も考える必要がないことは明白です。
いえ、それどころか、深く考えて読まれると、突っ込みどころ満載なのが
バレてしまう恐れがあるので、できればやらないでほしい、というのが本音でしょう。
こう考えると、大川氏の本は、内容の薄っぺらいものの乱発といえます。
それは、出来るだけ沢山読んでほしいから、そうなるんだと思います。
で、沢山読んでいくうちに、読み手は複雑なことを考えずにどんどん読める
「快感」にはまり、大川氏の本しか読まなくなる、いえ、
大川氏の本しか読めなくなるんです。
それが「洗脳」につながっていく、そんな気がします。
一種の麻薬の様なものです。
私は大川本という「麻薬」にはまってしまう前に、
その「単純な手法による、ワンパターンな内容」に飽きてしまったのです。
大川氏の本には読むところがない」そう思う様になったのです。
そして次第に、大川氏の本を読むペースが落ち、ほとんど読まなくなりました。
大川氏の本をほとんど読まなくなってから、入れ替わる様に、
読むのを避けていた「小説・物語系」を、少しずつ読む努力をしてみたんです。
最初は小学生が読む様な、児童文学から始めたりしました。
子供と一緒に、書店や図書館に通ったりしながら。
すると、徐々に「物語を最後まで読み終えることができる自分」を取り戻して
いったのです。そして、最後まで本を読み終えた後に来る
「なんともいえない感動」を味わえたことに、大きな喜びを感じました。
その感動を味わった時、私は思いました。
「二度と大川氏の本なんて読むものか!」と。
(児童文学は、大川氏の本とは比べ物にならないほど、内容が深いです!)
勿論、今では、大人向けの小説もちゃんと読めます。
大川氏の本は、読解力を奪ってしまう危険なモノです。
又、読み続けていくうちに、「大川氏の本以外は受け付けない体質」へと
変化してしまう恐れがあります。ですので、読まないのが一番です。
以上が、私が経験した「大川氏の著作物を読むことによる弊害」です。
「真実を語る」への、皆さんの素晴らしい投稿に比べると、
宗教的な話が全然なくて、なんとも幼稚でお粗末です。
しかも、この経験は、日常生活に支障をきたすほどの悪影響ではありません。
でも、私としては、ちょっと困った経験ではありましたし、
大川氏の書籍から受ける「悪影響」に関して、
十分味わうことができました。
なので、こういう経験もあるということで、ご一読頂ければ幸いです。                                  では。かしこ。

3 件のコメント:

  1. 思い出してみると、自分も、幸福の科学から離脱した時期に、童話や児童文学を読んでいたような気がします。

    当時は、マインドコントロールによって自然な情緒を歪められ、心が疲れていたから、素朴な情感や道徳が描かれた童話や児童文学に癒しを求めていたのかもしれません。

    ちなみに最近は、魚住直子の『Two Trains ~とぅーとれいんず~』を再読して、涙ぐんでしまいました。ようやく、教義で考えるのでなく、人間らしい心で感じたことを素直に表現できるようになってきたかな……。

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  2. もう一言。

    『論語』の為政第2の16には、孔子の言葉として、「異端を攻(おさ)むるは斯(こ)れ害のみ」というものがあります。

    その意味は、吉田公平の訳では次のようになっています。


    >先生がいわれた。
    >「間違った考えを研究するのは、害ばかりである」
    (『論語』吉田公平訳、たちばな出版、平成17年第2刷、43頁)


    大川隆法氏の著作に読み耽ることの弊害を指摘する投稿を読むたびに、本当にその通りだなと実感している次第です。

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  3. アイマイミーです。

    この方の仰ることは正にそのとおりです。以前、洗脳解除の方法に書きましたが、大川の読書傾向には、文学領域がありません。だから、大川の本には感動も、心を豊かにする力がないのです。

    これを逆に言えば、文学領域を読めば、洗脳も解きやすいということになりますね。私の場合は、ハンチントンの『文明の衝突』という文明史観を扱っている力作でしたが、これを読んで、大川の言説が陳腐なものだということがよくわかり、一気に洗脳が溶けていきました。

    大川の本は、基本的に羊頭狗肉で、本のタイトルと内容が大きく乖離しています。『永遠の法』以降がそうですよね。それ以降、殆どがパクリです。

    とくに、仏教解説は、完全なパクリです。あれは、大川の潜在意識を紐解いて語ってるのではなく、仏教専門書を読んで喋ってるだけです。私が、そうした本を買い集める指揮者だったのでよく覚えてます。仏教書専門店に足しげくかよいましたから(笑)

    なお、90年代半ば以降の作品は全く価値がありません。それは、その頃から愛人との耽溺生活に堕してしまったので、勉強しなくなっているからです。搾りかすで話しているにすぎません。だから、古本屋やブックオフに持って行っても引き取ってくれないのです。処分するのに逆にお金を取られてしまいます。

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