2012年9月28日金曜日

番外編 批判する精神としての愛


投稿者Mさんとの対話

投稿者Mさんから届いたメールに、私は暖かいものを感じました。彼女は、私にメールの文章への批判を求めてこられましたので、私は頂いたメールを対話形式に編集しなおし、「投稿者Mさんとの対話」として発表させていただきます。

投稿者M 私が初めて種村氏と電話でお話をした時、私は一種のパニック状態に陥っていました。幸福の科学の実体を知り、悲しさも怒りも感じられないまま種村氏に電話をさせて頂きました。
それから、幸福の科学の実体をリサーチしているうちに、怒りを感じはじめました。しかし、「幸福の科学と関わったことも私の人生の一部、結果を含めてそこから学べるものもあるだろう」と受け容れてからは、冷静に「大川氏がなぜ法を説けたのか」等を考え始めることができております。

種村 おっしゃる通り、自分の人生を受容することが、とても大切だと思います。大川氏と関わったのも自分の人生であり、それを信じ洗脳されたとしても、それも自分です。まずその事実を受け入れて、そこからスタートしようとすることだと思います。Mさんはその後、どうされたのですか。

投稿者M  私は、まるで「幸福の科学」を題材にした映画を作るかのように、大川氏と教団を考察しています。その映画の主人公は大川氏ではなく、「僕」という人物です。この「僕」は、私自身でもありますが、信者であった方また信者である方で、この映画の観客は90%以上が幸福の科学に関わっていない方達です。といいますのは、私は、幸福の科学の教えの枠外から考察するようにしています。幸福の科学の教えの枠内からだと、大川流の「和合僧破壊」等の呪文に縛れ、大川氏や教団に疑問を持つ自由さえ奪われるのです。ここでも、間違いを指摘できます。私は今とても自由です。そして、真なる神が私が自由を取り戻したことを喜んでいます

種村 よかったです。「和合僧破壊」は堕地獄であり、二度と人間として生まれることができないとの旨が幸福の科学の経文には書いてあります。しかし、ダイバダッタは人間として生まれています。大川氏も、ダイバダッタは人間で生まれていると言っていましたから、自己矛盾を起こしているのです。人間として生まれられないというのは、真理ではなく、大川隆法の呪いの言葉です。まさに文字通り「呪文」なのです。退会すれば、幸福の科学の霊的な縁が切れて、自由を得ます。さらに、大川氏の思想と行動の誤りを検証をする作業を通して、心の自由をもっと取り戻せると思います。
投稿者M  今回の私の見解で、「幸福の科学」を題材にした映画を作るなら、その映画のタイトルは、『ハッタリの法』です。かなり皮肉なタイトルですが、私がこの映画の脚本を書くなら、少し笑える部分をつくるでしょうから私のちょっとしたブラックユーモアです。怒りだけでの考察は危険ですから。      

種村 大川氏の法はまさに「ハッタリの法」ですね。

投稿者M このメールを書いている間に、「大慈悲が働いていると思う」が記載されました。種村さん、みんな一生懸命考えているのですね。
私は、この方の「今回の大川隆法の問題は、私たちに対して真なる偉大なる神仏へ思いを馳せるために与えられた慈悲でもあると思っています。に同意します。では、以下の私の考えに間違えがあるなら指摘ください。
 <「大慈悲が働いていると思う」を読んで>
 「偉大なる神仏の念いは、何ものにも冒されない。故に神の言葉は何ものにも冒されない」
この意見に私も同意します。
 悪魔的な存在が神仏の言葉を語って感動を与えられることは、それを語った悪魔の力ではないのです。言葉そのものが神仏であるから、悪魔的存在が神仏の言葉を語っても神仏の権威は汚されることはないのでしょう。」
 私も一度はこのように考えました。それで、大川氏の語った「神」の部分でもって、このまま幸福の科学を続けても良いのではないかとも思いました。
しかし、種村氏が820日語ったように、「大川氏が御自分の不都合な真実を世に公表し、反省して出直すというならば、私も大川氏の一弟子として御供させていただく」。でも、それとは正反対の今の大川氏を「わが師」と仰ぐことはできないという結論に至りました。

種村 それはそうですね。当然だと思います。

投稿者M 次の二つの引用の下線部分についての、私の考えを見てください。
 悪魔的な存在が神仏の言葉を語って感動を与えられることは、それを語った悪魔の力ではないのです。」

「地上に生まれることを許し、そして、神の言葉を人々に説き続けることで
多くの人々を傷つけたカルマを修正させ、神仏の子としての心をとり戻させたい」
 これについては、幼稚な例え話になりますが、泥棒が「泥棒はしてはいけない」と説き続けたとします。確かにその言葉は正しいのですが、泥棒がその罪を許されるわけではありません。ましてや、泥棒が言ったその言葉をプラスの気持ち(感動等)で受け入れるでしょうか。もっとも、その泥棒が足を洗った後であれば、別です。
 悪魔が悪魔とわかる状態で神の言葉を語ったとしても、確かに神仏の権威は汚されることはありませんが、人々に感動は与えません。少なくとも私は感動しません。というのは、私は、感動する言葉に「説得力」「純粋な喜び」等の要素も求めているからでしょう。天使が天使と思われる状態で神の言葉を語ったとき、神仏の権威がストレイトに伝わり感動するでしょう。

種村 ここで言う「悪魔的な存在」とは、ルシファのエネルギー体の一部分が引き上げられていることを指しています。したがって、今の大川氏の状態であれば、完全に「悪魔的な状態」だといえるのですが、初期の頃では本当は「悪魔的な存在」であったかもしれませんが、「悪魔的な状態」とまではいえないと思います。そういう方が語った言葉に感動した自分を責める必要はないと言っていると思います。なぜなら、誰によって語られても「神の言葉」に感動したこと自体は、その方の魂にとって、恥ずべきことではないからです。

当後者M 私は、種村氏の「真理はその実践を、真理を説く人に要請する」に同意します。また、悪魔が天使のふりをして神の言葉を語ったら私は感動するか。私がそれを「天使」だと信じたら感動するかもしれないし、私は「感動」を言葉で上手に説明できませんが、「感動」はそれを与える側、それを受ける側の沢山のエレメントが重なりあって生まれるのだと思います。
 さて、大川氏の説法で感動をした。この時大川氏は天使的であったのか、悪魔的であったのか。私は彼は天使的であったと思います。「大川隆法氏がまだ心の透明感を保持していた頃に、神は彼に神の言葉を預けられたことがある事を認める」に私も同意します。また、大川氏の前世は私にはわかりませんが、この間は「善の蓄積」または「カルマを修正」がされたと思います。

種村 私もそう思います。それが偉大な神仏の慈悲であったと思います。大川氏はその意味で、神仏から本当に愛されていたと思います。その神仏の愛は、今、大川氏にこれ以上悪をさせない方向に働いていると思います。その意味で、大川氏は神仏から愛されています。私はそう信じています。

 当後者M 私は、大川氏に手紙を書いた種村氏の真意が「裁き」ではなく、「愛」であったと知った時、心救われ、種村氏の優しい人柄に接することもできました。また「今回の大川隆法の問題は、私たちに対して真なる偉大なる神仏へ思いを馳せるために与えられた慈悲でもあると思っています。」に同意し、この言葉に「許し」を感じ、この言葉で心救われる方おられると思いますと、心が温かくなりました。
 実際、私自身、今回の一連には、戸惑い、悲しさ、怒りを感じましたが、「幸福の科学と関わったことも私の人生の一部、結果を含めてそこから学べるものもあるだろう」と受けれてからは、心の冷静さを保っております。

種村 有難うございます。神仏は私達一人一人も、大川氏やその信奉者の皆様にも、等しく注がれていると思います。ただし善を押し進め、悪を押し止める方向で働いているので、御本人の希望に沿った形で神仏の愛が作用するとは限らないのです。誤った道を驀進しているときは、挫折をするように働く神仏の愛もあると思います。永遠の生命の観点から、その方の魂の進化に最も益する形で神仏の愛は働くと思いますから。ですから、私は思います。大川氏を批判しても、愛の心を持って正しく批判することを常に心がけたいと。投稿者Mさんも、そうした心を持っていらっしゃると思います。そうした道を歩む方が続々と集われることを、心から期待しています。
最後になりましたが、貴重な御意見を下さった投稿者Mさんに、心から感謝申し上げます。

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