2012年9月10日月曜日

洗脳解除のために② 「一千億年の孤独」考

大川隆法氏の孤独の真実を探る

幸福の科学の洗脳の中でも最大の洗脳は、「一千億年の孤独」という教義だと思います。幸福の科学の信者が大川隆法氏を根本仏として信仰する根底には、この教義による洗脳があります。そこで今回は、「一千億年の孤独」を検証してみたいと思います。今回は、幸福の科学の基本教義をあまり知らない人のためにも、ある程度分かるような配慮をさせていただきます。

1.大川隆法氏の説く「一千億年の孤独」

 大川隆法氏が「一千億年の孤独」説を最もまとまった形で説いたのは、1989916日、静岡・グランドホテル浜松にて開催された幸福の科学9月研修「知の原理を学ぶ」(9/1517)の中の「青年部大会講話」でした。まずどのようなことが説かれているのかを、抜粋して紹介します。
<講話:一千億年の孤独>
 今から一千億年ほど昔の事になります。その頃、この三次元の銀河系宇宙を創るという計画が出来ました。その時には、私はまだ個性化はしてはいませんでしたが、その時の記憶があります。その一千億年の昔、この三次元の宇宙を創ろうとした時に、前に広がっているものは、孤独でした。時間も空間もまだ無かった。時間と空間が出来ない時は、同じく念いを持ち、行動をする人も無かった。そうした孤独の時に、一つの念いが芽生え、空間を創ろう、時間を創ろう、そう念って、永い永い孤独の間、この宇宙を創って来る為に、私もその一助を為して来ました。
 今から百億年ぐらい前になりますと、私の記憶はもっとはっきりして参ります。この太陽系を創った、具体的な行動の一つ一つが、蘇って来ます。そしてやがて、金星に高等生物を創った時、その時も孤独でした。それからこの地球に、今から6億年ほど前に、人類を創ろうと計画した時も孤独でした。
(中略)
 そして、今回、地上に生まれて、20才の頃、やはり私は孤独でありました。理解を求めても、理解してくれる方はいませんでした。私の、与え続けんとする想いはその頃から始まったと思いますが、この与えんとする想いに、確かな反応が来るまでに、10年かかりました。それまでは、誰一人、私の投げた球を返してくれた方は、いませんでした。
(中略)
 しかし、全ての出発点の前に、孤独があったと言う事を忘れてはならない。今、あなた方一人一人が、孤独な中に生きていようとも、孤独な卵の中に籠もっている様な、そうした殻を破る前のひなであったとしても、大宇宙が出来る前も、こうした孤独があったのだと言う事を、忘れてはならないと思います。
                              (以上)

幸福の科学では、「一千億年」と言う言葉は、「大宇宙の創造」と言う意味を持ちます。そこで「一千億年の孤独」とは「大宇宙の創造主の孤独」という意味を持つのです。
 幸福の科学の教えの体系を著した基本書に『太陽の法』があります。ここには大宇宙の創造の歴史が書かれていますが、次のようにあります。

「根本仏は、いまから一千億年ぐらい前までに、三次元宇宙空間の創造を意図しておられ、約八百億年前には、自らの意志でもって、三次元宇宙を統括する巨大霊を創造しました。・・・銀河系のなかでも、わが太陽系が三次元宇宙空間に出現したのは、約百億年前です。・・・」(『太陽の法』第一章より)

これを見ると、一千億年と百億年と言う言葉の意味するものが、分かって頂けると思います。

2. 教義の矛盾

 さて、「一千億年の孤独の教説では、すべての創造の前には「孤独」があるのだ、それは大宇宙の創造主も感じたものなのだ」と言う思想が説かれていたのですが、これは『太陽の法』の中の別の教義と矛盾するといういことを、まず指摘しておきたいと思います。

『太陽の法』の第3章「愛の大河」には「地獄界をつくっている要素とは、一体なんでしょうか。そこにうずまいている要素、想念エネルギーには、次のようなものがあります。」とあり、合計34個の要素を列挙しています。 

「ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、・・・孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和」

ご覧のように、「地獄をつくっている要素」の一つが「孤独」なのです
 さらに続いて、こう書かれています。

これらは、すべてマイナスのエネルギーです。しかし、こうしたマイナスのエネルギーも、決して、実在のエネルギーではありません。憎悪とか、嫉妬、怒りや不平不満も、結局は、愛の不在なのです。愛のエネルギーがたりないだけなのです。」

 これによれば「孤独」は「地獄をつくっている要素」であり、それは「マイナスのエネルギー」であり、結局は「愛の不在」が「孤独」を生んでいると言うことです。
そうであるならば、大川隆法氏が説く大宇宙の創造主、或いは根本仏は、「愛の不在」を感じ、「孤独」という「マイナスのエネルギー」によって大宇宙を創ったという事になります。もしこの大宇宙が「一千億年の孤独」から生まれてきたのであれば、その創造主は「地獄をつくった方」だという事になります。

3.孤独は自我の感覚

 孤独は思春期・青年期に深く味わう感覚です。この時期は自我が本格的に確立する時期です。つまり、自我の確立は孤独の感覚を伴うのです。心理学では、青年期に自我を確立し、そこで感じる孤独から「親密性」を求めるようになり、男女の愛が生まれ、家庭を持ち、一家を形成することを教えています。

 孤独という感覚は、自我の確立の影と言えると思います。自我の感覚は自と他を切り離す感覚です。全体につながり、支えられ、生かされているという感覚ではなく、他とは違う個性を求め、他人と競争し、他よりも愛されたくて、そのためにもっと優れたものになりたいという思いをもたらす感覚です。これは大切な人格発達のプロセスではありますが、物事の反面しか見ていないために、孤独の苦しみが伴うのです。しかし、それ故に人は伴侶を求める衝動が生まれ、子孫が続くのですから、そこはうまく出来ていると感じます。

 自我の影、これが孤独です。「全体につながり、支えられ、生かされているという感覚」というのは、無我の感覚です。諸法無我の感覚です。この感覚が強まると、他もしくは全体とつながり、支えられ、生かされているという実感が生まれ、感謝が沸き起こります。その時に孤独感はありません。つながっているという感覚が、ずっしりと心に実感としてあるからです。
 孤独とは、このつながりの感覚、生かされているという気持ちの欠如からくる感情だと思います。

4.孤独は無いと知った瞬間

私には32歳の頃に、一つの神秘的な体験があります。私にとってはそれは心理学でいう「至高体験」の一つでした。

 それは秋の頃だったと思います。私は幸福の科学の職員として2年目を向かえる頃でした。自宅の居間でくつろいでいた時、心が非常に静かに澄んでいくのを感じました。すると心理学で変成意識と言われている意識の状態に切り替わり、自我意識が急速に薄れていき、消えていったのです。その時に私はこう感じました。

 私はすべてとつながっている。あらゆるものとつながっている。個性はあるが、個性を持ったまま、あらゆる生命、あらゆる星ともつながっている。なんという至福なのだろう。なんという安らぎなんだろう。なんという静けさなのだろう。深い静かな喜びがある。すべてのものとつながり、すべての存在への愛がある。
 私は心の中で問いかけました。「孤独は?」
 すると即座に心の中に回答がきました。「孤独は無い」
 孤独は無いのだ。何処にも無いのだ。すべてとつながって存在しているのが、存在の実相であり、存在の真実であり、そこには孤独は無いのだ。

私はそう知りました。それは至福のひと時でした。「ワンネス」という言葉がありますが、すべてとつながって一つと言う実感を表す言葉ではないかと思っています。私のような経験をされる方が、世間には多くいらっしゃるのだと思います。

 その約12年後に、私は還俗しました。幸福の科学を退職したのです。それまでの、様々な人間のつながりが切れました。私は孤独の中にいました。還俗直後の2、3年は、一人関西の大都市のマンションで、たった一人で苦しみと孤独に耐えながら、新しい仕事に取り組んでいました。その時は、本当に孤独でした。友人がいないわけではなかったのですが、孤独だったのです。
しかし、その時に、心の奥で、こう考えている自分がいました。

「この孤独はニセモノだ。本当の自分には孤独は無い。孤独で苦しむ自分は幻影であり、自我のもたらす幻に過ぎない。本当の私はすべてとつながっており、孤独は無い。孤独があるように見えるのは、今、本当の自分を見失っているからだ。」

 その思いがあって、最も苦しい時を耐え忍べたと思います。32歳頃の至高体験は、私には決定的な体験であり、否定できない真実の体験だったのです。それが私を絶望と孤独から救ってくれていたと思います。

5.悦びの中に大宇宙は創造されたはずだ

 母親が子供を宿しているときに、母親は孤独でしょうか。男性の私は経験が無いので実感としては分かりませんが、子供をいとおしむ愛情は、孤独とは無縁のものだと思うのです。希望や期待、夢、そして慈しみの心、そうした心が沸き起こる時期ではないのでしょうか。

人間の母親がそうなら、大宇宙を創造された神は、宇宙を創造される時、期待、希望、夢、悦び、そして慈しみの心で大宇宙の創造を計画し、実行されたと思います。決して、「愛の不在」の感情の一つである「孤独」の中に大宇宙を創造されたのではないと思うのです。
 

6.一千億年の孤独を感じた魂とは誰なのか

 私は、大川隆法氏の「一千億年の孤独」の教説が、深い感情的な実感を伴った言葉として説かれている事に着目します。単なる観念ではなく、深い実感を伴っている。それゆえに信者はこの教えを信じるのです。しかし、私はこの実感を込めて語られる「一千億年の孤独」の言葉の奥に、大川隆法氏の実体験を垣間見るのです。それは、一千億年とすら感じるほどの深い孤独を、この魂は味わってきたという「真実」です。

一千億年という時間。この時間は無限の長さです。この無限の時間に孤独を感じる場所と言うのは、たった一つしかありません。それは無間地獄です。幸福の科学で説かれている無間地獄は、主に思想犯が行くところです。他の人に思想的に害を与えるので、他のすべての人と切り離されるのです。たとえば「神は死んだ」と説いて、最後は狂気の中で死んだニーチェは、ヘドロの沼に足に鎖をはめられて、たった一人にされているという描写も、幸福の科学では説かれていたと思います。

いずれにせよ、深い孤独です。地獄では、この世の時間に比べて、その数十倍、数百倍にも、苦しみの時間を長く感じると言われています。千倍も長く感じるとしたら、1億年は地獄にいなければなりません。1億年以上地獄の最深部にいて、地獄世界を文字通り創造してきた方と言えば、西洋で有名なサタン、ルシファです。幸福の科学では一億二千万年前に彼は地獄に堕ちたと言われています。彼の感じる無限に続く孤独であれば、「一千億年の孤独」という言葉にふさわしいのではないかと思います。

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2 件のコメント:

  1. 孤独は確かに地獄の住人や地獄界の必要条件で、一種の愛の欠如やマイナスのエネルギーだとも思いますが、同時に真の幸福や自立への必要条件だとも思います。
    逆に、孤独ではない、つまり他人の心と「深く」繋がる体験ができる人生なんて、ほとんど(皆無とは言い切れませんが)ないといっていいんじゃないかと思います。


    仏陀ですら孤独に関してこう言っています。

    孤独に歩め…悪をなさず 求めるところは少なく…林の中の象のように

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    1. 相対的な世界、つまり通常の私達の生活の中で、孤独というものが一つの大切な人生の要素になっているのはその通りだと思います。
      しかし、それはあくまでも相対的な人間の世界の事です。自我が確立してくる段階で、自他の分離感が強まり、また親との分離も伴うので、孤独の苦しみが伴うのは事実です。それもまた人間の成長にとって必要なプロセスですが、それもまた相対的な世界でのことです。

      これとは別に、道を共に求めることのできる人がいないなら、人と群れようとせずにサイの角のように独りで歩めという釈尊の言葉もありますので、その時は孤独です。しかし孤独は孤独感とはかならずしも一致しません。孤独は一人あることですが、孤独感は大勢の中にいても感じます。一人であっても無我なるとき、孤独感は無いのではないでしょうか。逆に、大勢の有人の中にいて家族の愛に恵まれていても、自我が強烈な時、「砂漠の中を一人歩むような孤独を感じます」と言われたクライアントもいらっしゃいました。この状態では、孤独は確かに地獄の苦しみです。孤独には両面があるようです。
      しかし、これらはいずれも相対的な世界における孤独です。

      ところが、私がここで問題にしているのは、大川隆法氏の一千億年の孤独についてです。「一千億年の孤独」とは、絶対者である大宇宙創造主・根本仏が宇宙を生み出すときの心境は「孤独であった」と語っているのです。これはおかしいというのが私の論旨です。

      孤独とは、多があって一を感じるときに、つまり相対の世界の中で起こる感情です。相対がない、多がなく、比較の対象もない絶対の世界の中で、孤独という感情はありえないのではないでしょうか。何故なら、根源にあって一なる存在ですから。

      大川氏の魂が味わったという孤独は、無限とも感じられる無間地獄の孤独なのです。大川氏が「自分は大宇宙を創造したときにずっと孤独を感じていた」というのは、無間地獄の孤独感を投影して語っていると思います。

      ここで改めて、確認させていただきたいのですが、日常生活の中で孤独というものにプラスの意味がなく地獄的な感情でしかないと私が思っているわけではありません。私は全ての感情は意味があって存在していると思っています。バランスを崩して何かが過剰に傾いた場合は問題が生じますが、いかなる感情でも、感情それ自体は価値のないものはないと思います。
      例えば、恐怖という通常は地獄的とされる感情でも、それがなければ肉体生命の維持が難しいといえますし、神に対する恐怖は、通常「畏れ」もしくは「畏怖」という言葉で表現されますが、これは人間が傲慢にならないためには絶対に必要な感情ではないかと思います。

      しかし、あくまでそれは相対の世界においてです。絶対の世界においては、孤独感も恐怖心も存在しないと思うのです。

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