2012年7月28日土曜日

『舎利弗の真実に迫る』講義56 「まえがき」に寄せて

「本書は、釈迦十大弟子の筆頭ともいえる舎利弗の確認を巡っての探究のプロセスを明確にしたものである。」(『舎利弗の真実に迫る』P1「まえがき」)

 この講義も、いよいよ終わりに近づいてきました。この本は、かつての弟子を、大川隆法氏が自ら乗り出して、信用毀損し、社会的に抹殺することを狙って出されたものだと思います。やむなく私は、正当防衛のためにこのブログで講義というかたちで、大川隆法氏の本の検証を始めました。大川隆法氏の霊能力や過去世認定はどの程度確かなものなのか。ここに出てくる種村守護霊は本物なのか。ここに登場する舎利弗は本物なのか。そうしたことを念頭に置きつつ、本書を一つ一つ丹念に分析していったところ、意外なことにこれは「大川隆法の真実に迫る」作業に他ならないことに気付きました。私がこの「まえがき」に模して書くとすれば、こうなります。

「本講義は、自らを仏陀の再誕として四半世紀にわたって主張してきた大川隆法氏の、真の姿を探究するプロセスを明確にしたものである。」

「正直言って私にとっても、哀しみの眼を持って見つめなくてはならない時間がかなりあった。」(『舎利弗の真実に迫る』P1「まえがき」)

私は、これはだと思います。私が行動を起こしたのは、ごく最近だからです。本格的には今年の春以降ですから、この言葉に嘘を感じます。教団自体に本格的に疑問を持ち始めたのも、まだ2年にも満たない期間です。それでも、「総裁先生は本当はすべてお分かりのはずだ。しかし幹部が悪いのだ。」という思考によって、真実は見えていなかったのです。

しかし、大川隆法氏の真実の姿が見えてきたときに、私は哀しみを覚えました。それと共に責任を感じました。弟子であったものとして、そして真実を知ったものとして、大川隆法氏に言うべきことは言わねばならないと思いました。それは今も続いています。


「もともと私は情にはもろい性格ではある。しかし、後天的な修行によって、理性的合理的頭脳も鍛えている。」(『舎利弗の真実に迫る』P1「まえがき」

 私はそう信じたいと思うものです。ですが、奥様に対してなされている仕打ちを見ると、そこには「情」もなければ、「理性的合理的頭脳」も感じません。長年の服薬によって、ひょっとしたら大分「頭脳」を痛めておられるのではないかと、心配しています。奥様になされたことと、同じことを私にされている『舎利弗の真実に迫る』ですから、そこには「情」も、「理性的合理的頭脳」も、やはり感じることは難しかったということです。

「本書で立ちあらわれている現象は、幸福の科学という宗教の、『慈悲の宗教』として持つ『優しさ』と、『近代合理性』を持つ『理性的宗教』としての『厳しさ』との間(はざま)にできた、かすかなすき間に、つけ入って生じたものであろう。」(『舎利弗の真実に迫る』P1「まえがき」

 私はこの部分を読んだ第一印象は、「慈悲という聖なる言葉を汚すことは許されない」という怒りでした。私は大川隆法氏は、仏を汚し、仏の言葉を汚していると思います。そこに怒りを覚えました。

 お金がある人に対する「優しさ」(もどきですが)は、この教団にもあると思います。しかし、それが本当の優しさでない証拠に、永年布施を続けてきて、もはや貯金を使い果たし、年金暮らしでほとんど布施ができなくなった会員さんへの冷たい仕打ちで分かります。どの支部でも、こうした人々の、嘆きや怒りを聞くことができます。

 また、大川隆法氏の奥様に対する仕打ちを見れば、優しさとか、慈悲とかには無縁の宗教であることが、もっとはっきりとわかります。私に対するこの本もそうです。この本のどこに慈悲や優しさを見出せばいいのでしょうか。

 私は慈悲について、こう思います。慈悲とは、幸福の科学が言うように、上位のものから下位のものへと向かう愛であるならば、まず下位のもの、弱者や、苦しみ悩む人々を、親鳥が身を挺して守るように、いたわり守らなければならないはずです。親が子をいつくしみ守るように。しかし、現実にされていることは、「溝に落ちた犬には石を投げろ」です。

また、慈悲のもつもう一つの側面として、未熟な魂をはぐくみ、忍耐強く育て、素晴らしいものへと成長させる働きが不可欠です育(はぐく)みの心です。これが幸福の科学にはほとんどありません。だから、幸福の科学では人が育たないのです。

 私のところにも、幸福の科学広報局の渡邊局長と土屋部長が「これは仏のご慈悲です」と言って、本を持ってこられました。私はかつての北朝鮮の「将軍様のご慈悲」という言葉を連想してしまいました。

 またこういう本を出すこと自体、どこにも「近代合理性」は見出せないと思います。これまで分析してきた結論から言うと、ニセモノを種村守護霊として登場させ、私の人格を貶め、ひそかに大川隆法を讃えさせる手法には、慈悲は無論のこと、「理性的宗教」の片鱗すら見出すことができませんでした。現在、週刊新潮や週刊文春に対して、同様のことをワンパターンでされていますが、これは厳しい反作用を受けると思います。

 私は大川隆法氏に申し上げたい。慈悲とか優しさとか、理性とか合理性とか、それぞれ深い意味のある尊い言葉を汚さないでいただきたい。自分勝手な都合のよい意味に摩り替えて、こうした尊い言葉を使うことは、言葉に対する冒涜です。

「私自身は、かつて愛した者は、いまでも愛している。」(『舎利弗の真実に迫る』P1「まえがき」

 もしこの言葉が真実なら、奥様に対して、あんなにひどい仕打ちはされないと思います。元の奥様に対してされている仕打ちは、普通の人間なら絶対にしないような、酷い仕打ちです。「あなたは本当に愛を知っているのですか」と聞いてみたいと思います。どうしてあなたの家庭が壊れ、幹部や信者の家庭が次々と壊れて、教団からも愛が消えていくのですか。それをお聞きしたいと思います。愛がない宗教。それが正直言って、私が今の幸福の科学にもつ印象です。

「しかし、救世主としての自覚や責任感、大義が、私自身への自制を強く求めてくるのだ。救いの蜘蛛の糸は、何度か垂らした。その糸が切れてしまうことにも、新しい救いが待っているのかもしれない。」(『舎利弗の真実に迫る』P1「まえがき」)

 奥様を切り捨て教団を挙げての個人攻撃をするときにも、同じ論理が使われました。「世界宗教になって世界を救わねばならないから、それを妨げる者は身内でも許さない。切って捨てる。それが救世主としての自覚であり、大義である。」これが大川隆法氏の論理です。

私はこれを聞いた当初、「そこまでして、世界宗教への道を歩まれるのか。それほど辛い思いをされてまで、全人類を救おうとされるのか。私もなにかお役に立たせていただきたい。それにしても、これほどの主のお気持ちが分からないとは、奥様は何てひどい人なんだろう。」と、そう思っていました。

 しかし、奥様のきょう子さんの本心は別でした。彼女は、大川隆法が異常であることに気がついたので、多くの人を巻き込むことや、彼がこれ以上の罪を犯すのを、どうにか食い止めたいと思って、世界に出ることに反対していたようです。私も、その気持ちなら理解できます。私も今、ほぼ、似たような思いを持っているからです。

 私は、いま、幸福の科学が新たに地上で生まれた地獄へと変化を遂げつつあると思います。ですから、大川隆法氏が投げかける「蜘蛛の糸」は、私を洞窟に縛り付ける毒蜘蛛・タランチュラの糸として見えています。私はこの糸を「除名」によって切っていただいたことは、「地獄から出てよい。ここでの修行は終わった。二度とここへは戻ってくるんじゃない。」と言われているように感じました。
 

 ちなみに、「その(救いの)糸が切れてしまうことにも」と、何か自然に糸が切れたように書かれていますが、一方的に「除名」して「糸を切った」のは大川隆法氏であり、「切れた」わけではないということは、注意して頂きたいと思います。こういう一見、綺麗な言葉を使いながら、巧妙なすり替えをしてこられますので、要注意です。「悪魔は、一見正論を述べながらも、巧妙に摩り替えてくるので、それを見破らないと、悪魔の術中にはまることになる」と、かつて大川隆法氏には教えて頂きましたが、そのことを、本当に理解出来たように思います。

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